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Web版 里見公園新聞

里見公園新聞 第85号 2014年3月10日  発行:木ノ内博道


エーネ・パウラスさんを知っている方に出会う
 ネット上の「里見公園新聞」を見た方からメールをいただいた。紙面に何度か出てくるエーネ・パウラスさんに、子どもの頃、お父さんと一緒に会ったことがあるという。貴重な生の情報だ。東京・豊島区にお住まいの方で、2月20日(木)、池袋のサンシャインビル・プリンスホテルでお会いした。
 その方は中村敏昭さん(昭和6年生まれ・83歳)という方で、城西大学経済学部の名誉教授。以下のようなお話を聞かせていただいた。
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 親父(中村政司)がパウラスさんと会う時には必ずと言っていいくらい子どもの僕が一緒だったので、その話をします。
 時々は叔父(中村義郎・1868年生まれ)も一緒でした。叔父は鬼検事と言われた人で、後年は札幌の検事正でした。子どもから見ても怖い人でしたね。
 親父は日大病院の小児科の教授で週3日教鞭をとり、残りの3日は飯田町で開業していました。本所の方でパウラスさんというアメリカ人の宣教師がいて、日本の孤児たちの面倒をみていました。孤児院を経営していたわけです。孤児たちが病気になってなのか、健康管理のためなのかは分かりませんが、とにかく親父はしばしば本所の孤児院に行っていました。親父はもともと熊本大学(医専)で教えていて、その頃パウラスさんと知り合ったらしいです。関東大震災の時に親父もパウラスさんも東京にやってきたと聞いています。
 すでに日本の国内情勢はかなり悪化していて、外国人、とくにアメリカ人と付き合うこと自体危険視され、下手をすればスパイ扱いをされかねない時代でした。国際情勢の悪化に伴って、パウラスさんもアメリカに帰国しました。戦後間もなくパウラスさんは来日して、今度は千葉県市川の国府台に家を構え、その近くで再び孤児院を開きました。僕も時々国府台に行った記憶があります。
 戦前、築地の芳蘭亭にパウラスさんを招いたことがあります(芳蘭亭は遠い親戚)。親父と義郎叔父さんと、僕も一緒でした。どういうわけか、こういう大事な席には親父は僕を連れていきました。飯田町でのことですが、影佐大佐(当時・母のまた従兄にあたる。影佐機関・サーベルを下げていた)が来たとき、また児玉誉志夫が来たときなどは僕もいつも一緒でした。そのことについて姉(恭子)は怒っていました。
 芳蘭亭にパウラスさんを招いたとき、義郎叔父さんが同席した理由は当時の僕は分かりませんでしたが、その後だいぶ経ってから、分かったように思います。戦前に、宣教師とはいえアメリカ人と付き合うことはスパイ扱いされかねませんから、今考えると実に狭量な話で、戦前の国民の意識レベルがいかに低かったかということにつきます。
 親父が、パウラスさんが帰国するまで本所の孤児院の面倒を見ていられたのは、すでに思想弾圧の鬼検事として知られていた義郎叔父さんの陰の助けがあったからではないでしょうか。そうでなければ義郎叔父さんを招く理由はないでしょうから。
 余談ですが、義郎叔父さんの思想検事としての姿は、戦後釈放された共産党の徳田球一の著作にも出てきます。
 パウラスさんが戦後来日して、今度帰国するときにはぜひあなたを連れていきたいと言われましたが、僕は中学入学時(当時の府立6中・今の新宿高校)病気をして、英語が超苦手となり、断念しました。
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