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里見公園新聞

里見公園新聞 第84号 2012年10月12日  発行:木ノ内博道


明戸古墳の露呈した2基の石棺
■明戸古墳考
 里見公園のなかほどに、2基の石棺が露出している明戸古墳がある。
 ここに市川市教育委員会の案内板があるので紹介しよう。
 「明戸古墳は、全長40メートルの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から6世紀後葉に造られたことが分かります。2基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
 この2基の石棺は、天保7(1836)年に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座、同所にあり。寺僧伝えて云ふ。古墳二双の中、北によるものを里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或いはいふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃棺の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎、及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって19世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。平成16年7月」
            
 石棺の蓋を夜泣き石の台座に使ったのは誰なのだろう。貴重な文化財の一部なのだから、判明したのであれば元に戻すのが普通だろう。
 後半で、江戸名所図会の引用をながながとするのもやめてもらいたいもの。第一説明がひどすぎる。当時の説明としてはよかったのだろうが、引用する内容ではない。古墳が6世紀のものだと言いながら、埋葬されているのは戦国時代の武将で、甲冑や太刀、陣太鼓がでてきたと言うのはひどすぎる。江戸名所図会にも紹介されているから、当時にすでに露出していたことが分かる、というだけだろう。
 それにしても、いつどんな時に石棺が露出したのだろう。国府台城の築城の時だろうか。総寧寺が移転してきた時だろうか。総寧寺に出土品を収蔵していると書かれているが、すでに出土品はなく、その真偽も分からない。
 案内板に書くべきは、この地に前方後円墳が造られた時代背景や、近隣の古墳との違い(たとえば法皇塚古墳の石材は千葉の鋸山の方の材質だと聞く・遠方から運ぶことのできた国府台の土地柄など)を書くべきだろう。
 この案内板の内容では、市川歴史博物館の存在が機能していないと言われてもしょうがない。
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