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里見公園新聞

里見公園新聞 第83号 2012年10月10日  発行:木ノ内博道


江戸名所図会の総寧寺に門や建物名を記入
■江戸時代の総寧寺
 本紙46号で三遊亭円朝が総寧寺について記録しているのを紹介したが、それと江戸名所図会の総寧寺を寺で生まれ育った友人に見せたところ、寺の構造について解説してくれた。以下は彼の解説。
 「総寧寺は表門に戒壇石が立ってる(円朝)ということなので表門が寺の入り口と言える。山門が寺の入り口になっている寺もある。(添付した地図を参照しながら)参道を表門、山門と進むと回廊で結ばれた中庭がある。正面が法堂。これが基本形。宗派によって違いがあるが、回廊の右手に庫裏、中庭には仏堂や塔、鐘楼がある場合がある。この回廊の外にあとから仏堂や塔(五重の塔)が出来てくる。あと経堂なんかも。基本は、山門があり回廊で囲まれた中庭がある。山門の正面が法堂(仏堂)」とのこと。

■幕末の国府台
 慶応4年の1月、鳥羽伏見の戦いに敗れてから、幕府歩兵隊が脱走して房総半島に終結し、官軍との戦いが繰り広げられた。この経緯は、小説『我餓狼と化す』(東郷隆著、実業之出版)に詳しいが、そのなかの「下総市川宿の戦い」は、市川における幕末の混乱がよく描かれている。
 同年2月に下総国府台に結集した歩兵隊(大鳥圭介軍)は2千から2千5百だったという。国府台の大半は総寧寺だったから、総寧寺に集結したと言ってもいい。しかしこの部隊は早々に移動して、他の部隊が連合しようとした時には姿を消している。
 他の脱走部隊は木更津に集結。そこから船橋、八幡宿と上り、官軍と戦うことになる。江戸川を挟んで小岩側の官軍の大砲を奪ったりするが徐々に撤退。
 今の国道14号線が佐倉道として登場したり、小岩にあった関所の番所が出てくる。

■周辺の近況
 夏前に、東京医科歯科大学の松戸道路に面したところで工事が始まったので何事かと思っていると、コンビニ(ファミリーマート)が7月30日に開店した。コンビニは近くになかったので便利ではあるが、これでまた一層、国府台商店街は力を失っていくことだろう。
 時を同じくして、その反対側の歩道も拡張工事。国府台病院が削られて歩道が広がるが、こちらは手間取っている。10月になっても使えるようにはなっていない。国府台病院は大掛かりな立て替え工事中。
 矢切りの渡しは10月1日から、これまで大人100円だった乗船料金が33年ぶりに200円となった。

■総寧寺考・格式の高い寺に庶民の墓はなかった
 国府台の一角に寺のない墓がある。盆などには総寧寺の住職に拝んでもらっているようだが、友人に意外な話を聞いた。
 江戸時代中期以前の寺に庶民の墓はなく、村のはずれに墓があったという。宗派によっても違うのではないかと思うが、確かに田舎に行くと村のはずれに墓があったりする。
 いまはそういう墓でも先祖代々の大きな墓石があるが、昔は故人一人一人の石が並んでいた。庶民の墓が明治以降寺につくられ、武士のような先祖代々の墓石が作られるようになった。
 これは案外、近代の家族観に影響を与えたのではないだろうか。日本の近代の、家を重要視する家族観が、寺に墓をつくることができるようになって生まれてきたなんて聞いたこともないが。
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