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里見公園新聞

里見公園新聞 第82号 2012年4月26日  発行:木ノ内博道

朝鮮から軍需工場に徴用
 国府台・里見公園の入口の道筋には、戦争中に朝鮮から徴用されてきた人たちが住んでいて、以前、敗戦直後の暮らしを尹(ゆん)きぬ子さんにコメントしていただいた(本紙57号)。
昨日、久しぶりに尹さんにお会いして話すうち、里見公園の近くに住む朝鮮系の人たちの話になった。――「朝鮮系の人たち」とこうして書きつつ、日本の敗戦後、国は二つに分断され、どのように書くのが正確なのだろうと迷う。
 尹さんは多くは語らないが「日本建鐡に徴用されてきたんだよ」と話していた。調べてみると、日本建鐡という会社は現在でも船橋にある。ホームページの社史には書かれていないが、戦時中は軍需工場で迎撃戦闘機「雷電」の大半の部品を取り付け、75機を製造したと言う。学生なども徴用され2万人が働いていたと別の記録にある。

維新のある日
 断腸亭日録というブログにこんなことが書いてあった。
 「幕末の頃、西軍(新政府軍)内部には、この国府台一帯に拠点を置くという案もあったほどである。つまり、江戸が無血開城されなかった場合、ここに陣地を築いて、江戸川を境に東軍と対峙するという案で、房総の広大な穀倉地帯と利根川水系の水運を頼みに、江戸城を攻略しようというものだったという。もしこの「江戸戦争」がおこなわれていれば、江東はおろか、江戸全体が火の海になったはずである。しかし、実際には、江戸は無血開城され、逆に退却する東軍が一時ここに陣を敷くことになった」。
 明治維新ごろの国府台はなぜか話題になる。以前、本紙で触れた「勝海舟が国府台に国会議事堂をつくるという噂がある」についても同じだ。
 ある人からこんなメールをいただいた。「松戸にある戸定邸は、徳川慶喜の実弟で水戸藩最後(11代)の藩主徳川昭武が造った別邸ですが、松戸は交通の要衝であり、関東平野にあって土地も高く、好立地であったようです。もしかしたら勝海舟も昭武邸に呼ばれたかもしれません」。
 が、戸定邸は明治になって建てられたもので、幕末の国府台の動きには無縁と思える。とくに初期には徳川慶喜と勝海舟は立場の違いもあり、仲がよくなかった、と戸定邸の学芸員が話してくれた。しかし慶喜の晩年ごろは勝海舟を先生と呼んでいたとも。慶喜の息子(十男)は跡取りのいない勝海舟の家に養子に入っている。

つぎはしの会で聞いたこと
 つぎはしの会に集まった皆さんから次のような話を聞いた。
@ 病院のこと
「里見公園には昭和36年くらいまで病院の建物があったが、昭和22年ごろにはもう機能していませんでした。戦争中に羅漢の井に下りていく道を歩いていると、窓の鉄柵につかまってトツゲキ!と叫ぶ人がいましたよ。たぶん道から2列くらいの建物が精神病棟だったと思います」とのこと。
A 江戸川で泳ぐ
「小学6年、昭和15、6年の頃でしたが、里見公園の下の江戸川を小岩の方の岸まで泳いで渡りました。ずっと浅くて、舟が通るところだけ深くなっていました。小岩の方には葦が生えていました。そこにヨシキリが巣をつくって卵を産んでいるんです。それを取ってきたものです」
B 錦織という料理屋
「植草さん(本紙10号に登場)の家は以前は画家の岡本一平さんの家でしたが、その隣に錦織という料理屋が戦前、戦後にあって、陸軍の御用達でしたね」
C 維新の頃の国府台
「国府台は明治維新になにかと話題になって、日本で初めての大学をつくるために農地や総寧寺の土地を政府が買いましたが、大学を作ると言うのは口実ではないのかなあ。橋もなく不便で、とても本気とは思えない」
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