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里見公園新聞

里見公園新聞 第78号 2012年1月2日  発行:木ノ内博道

パウラスさんと国府台の緑
 2011年11月1日に発行された「いちかわ市史編さんだより」(第6号)に本紙が紹介されていた。
 「記憶と声が紡ぐ、地域の歴史・人々の生活」と題して内藤浩誉氏が書いている。長い記事でもないので全文を紹介させていただこう。
 ――地域の歴史を繙くには、人々が積み上げてきた生活史を見つめることも一つの手段です。時と場で繰り返されてきた営みに光を当てるのが「民俗」という分野であり、生きた証言を求め見て聞いて歩く作業を市史編さん事業でも行っていますが、キーワードをアンテナに聞き取り調査を重ねる過程で、人との出会い、その生の声が紡ぐ思い出が貴重な「時代の証言」として情景を立ち上げてくれ、感動を覚えることがあります。心に残った一例を挙げてみましょう。
 地元密着情報を発信する地域新聞『私家版里見公園新聞』(木ノ内博道氏発行)に度々名が挙がるルーテル教会の宣教師エーネ・パウラス女史(1891〜1978)。この「パウラスさん」について興味深い一文がありました。何でも、戦時中「国府台の方は爆撃を受けなかった。それはパウラスさんのおかげ」なのだとか。この言葉を心に留めたある時、パウラスさんを知る話者に出会いました。代田ムツ子さん(明治42年生)は語ります。「江戸川の脇にマイハウスがあるからここには爆弾落とすなって言ってあるから此処は大丈夫ですよ、って仰っていましたものね、あの頃。だから、殆ど落ちませんでした。それまでは軍隊があるから危ないとは思っていたんだけれども。それが無かったから、後で、なるほどなあって思って。」「パウラス先生が作った幼稚園には、戦後私の子供も通いました。アメリカから着るものや何かを取り寄せて、子供たちに着せてくれました。それと畑全部食べ物を作っていて。子供たちは貰ってはよく食べていました。食べ物がなかったんですもの、戦争終わってすぐでしたから。私が病気になった時には車を出してくれましてね。あそこだけでしたから、車を持っていたのは。」<平成21(2009)年12月24日聞き取り>
 パウラスさんの話を口火に次から次へと語られる、兵隊が闊歩していた国府台の周辺の様子や、戦中から戦後の生活とその変遷、心情。国府台天満宮の北側に戦前より存在した孤児院「チルドレン・パラダイス」は今こそ形跡はありませんが、言葉で紡がれるのは確かにそこに生きた人々の面影、時代との邂逅といえましょう。さらに調べてみると、このパウラス姉妹の偉業は日本の福祉史に楔を打つものでもありました。まさに灯台下暗し。文字には顕れてこない歴史を、生き生きとした交流の記憶は明かしてくれます。それが、話者から話を伺う醍醐味でもあります。日常の一コマに潜む一期一会。足元を見つめて発見した、新たな事実。みなさんも、今しか、そして今でこそ触れ合いたい世界を、「語り」から向き合ってみませんか。
                 
 小さな小さなメディアであるが、読んでくれている人がいるのは嬉しいものである。借地の問題だと聞いているが、チルドレン・パラダイスは取り壊された。しかし社会福祉法人チルドレンパラダイスは健在で、千葉県いすみ市で「聖愛乳児園」などを展開している。
お姉さんの方は伝記もあるが、エーネ・パウラスさんについては、地域の多くの人がお世話になったものの資料は散逸しつつある。

■正門の陰に碑が
 正門の陰にこんな碑を見つけた。「明治百年記念植樹――市川市老人クラブ連合会 昭和43年3月吉日」とある。どの木を植えたのか、それらしい木はなかった。碑というのは時として残酷なものである。碑はこうしていつまでも残るし、樹木と言えど命あるものは消える。
 そういえば去年は大正100年に当たっていたが、誰も大きな声をあげる人はいなかった。
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