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里見公園新聞 第75号 2011年12月1日 発行:木ノ内博道 |
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■「里見の郷」は山崎製パンの創業の頃から
引き続き田中さんの修士論文『市川市国府台――軍都から学術都市への生活空間の変容』から、山崎製パンの部分を引用しよう。山崎製パンが東台開拓を母体として誕生したことについては本紙の別なところで触れた。
――国府台付近に出現した開拓地の中で、特筆すべきはここから、今日日本一のシェアを誇る山崎製パン株式会社が生まれたことである。開拓地への入植早々、東台農業実行組合は、農林省から斡旋された製パン設備を利用して、収穫した小麦や大麦の脱穀・製粉をしながら、東台パンとしてパン菓子の製造販売をした。当初は開拓者の中からのみ委託加工を請負っていたが、次第に外部からも請負うようになった。
そのような中、一人の人物が個人でパンの製造販売を始めるようになる。それが現在世界においても莫大なシェアを誇る山崎製パン株式会社の創始者飯島藤十郎であった。
組合で東台パンを作るなかで飯島は独立を考え、独学でパンの製法等を学んだ。土地と建物を見つけ、パンを焼く釜を準備して工場の形を整えると、1948年3月9日、京成国府台駅近くに山崎製パン所が開業された。何故、開業者の名が飯島であるのに山崎と名づけたのかという理由は、当時飯島は「東台農業実行組合の理事であり、東台パンの仕事にも携わっていたため、飯島名義では開業許可がもらえなかった」ためである。そこで、飯島の中村屋時代の仲間に嫁いだ妹裕代の名字「山崎」を使ったのである。
1949年8月になると和菓子の製造販売も始め、現在も定番として残っている「里見の郷(当初は「里見まん」といった)」は爆発的な人気を呼んだという。同年9月には京成八幡駅前に直営店を出し、短期間で本店と並ぶ程の売り上げを出すようになった。その後も洋菓子製造やケーキの製造なども行い、現在では食パン、菓子パン、和洋菓子、弁当、その他菓子などの製造販売を行っている。(P52)
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社員寮ができる?(2011.11.29.撮影) |
里見公園で初めて・プレイパークのイベント |
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■山崎製パンの空き地が造成中
市川広小路の近くの山崎製パンの空き地がこのところ造成中。社員寮ができるという。
■プレイパークの開催
11月23日(水)の勤労感謝の日に、「里見公園でプレイパークを開催するから来ないか」とのお誘いを知人から受けたので行ってみた。
プレイパークとは子どもの外遊びを進めるもので、冒険遊び、たとえば木登りや穴掘りなどをする。日常の里見公園では許されないものだが、今回は許されて、穴掘りこそしないものの火をおこしたり、木に登ったり。子どもと大人100名以上が楽しんだ。
今回初めての試みである。プレイパークは60数年前にデンマークでスタートし、国内でも120以上の団体が活動している。
はたして従来の里見公園のコンセプトで受け入れることができるのか、楽しみではある。
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