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里見公園新聞

里見公園新聞 第73号 2011年11月29日  発行:木ノ内博道

里見公園に関する契約書
 『市川市史』を見ていたら「里見公園に関する土地使用貸借契約書」と「里見公園に関する覚書」(いずれも昭和30年3月1日付)が記載されていた。契約書は浮谷竹次郎(市川市長)と吉田秀弥(京成電鉄株式会社取締役社長)の間に結ばれたもので、その内容は「市川市国府台三丁目六九番地外六筆七二五一坪一六(総寧寺所有地別紙物件表示)を市川市公園遊園施設敷地として使用貸借する」もの。どうやら以前里見八景園だった部分の土地のことらしい。
また、覚書には、里見公園の運営について委員会を設置するとしている。メンバーは市職員と京成電鉄の社員で構成されている。
 総寧寺所有の土地であるのなら直接市川市と契約すればいいと思うが、寺院の土地は宗派のものであるし、一度京成電鉄が使用権を設定しているのであれば市川市はその使用権を二重に設定した方が手っ取り早かったのかも知れない。
 あるいは、八景園の閉園段階でどんな事情があったのか、それを引きずってのことかも知れない。

田中さんの修士論文
 和洋女子大学大学院総合生活研究科の田中由紀子さんが、2008年の修士論文で『市川市国府台――軍都から学術都市への生活空間の変容』を書いている。当時から話題になっていたが、今頃になって論文を見る機会があった。
 エーネ・パウラスさんの記述の部分に「木ノ内博道氏が発行している『私家版 里見公園新聞』によると、パウラスにはOSSに所属していたメージャー・リーンという甥が居たために、国府台の空襲が少なかったという記述を見ることができるが、真偽の程は定かでない」とあって、本紙を読んでいたことが分かる。
 よくまとまっているので、この論文から里見公園に関する部分を抜き書きして紹介していこう。

料理旅館「鴻月」
 上記の修士論文「市川市国府台」(P29)には鴻月についてこんな記述がある。
 ――鴻月は当初、里見八景園の一事業であったが、閉園・終戦後も1976(昭和51)年まで50年以上、営業を続けていた。その建物は、東京鶯谷に江戸期に建設されたという「料亭 志をばら」を移築したものであった。移築の際、川畔に建設するため、江戸川を使って建材を運んだという。このことから当時はまだ未だ江戸川の舟運が利用されていたことがわかる。
 遊覧客の多くは、鴻月が経営していた渡し舟を使ってやって来たため、鴻月では桟橋をのばして客を迎え入れた。また、渡しの他にも遊船事業を行っており、遊覧船も数隻所有していたという。遊船事業では船頭が投網で魚を獲り、その魚で新鮮な料理を振る舞っていたという。鵜飼を行っていた時期もあったが江戸川の水深が深かったため、鵜飼には不向きであったという。
 また、当時は高層ビル群が東京になかったため、富士山を望むこともできた。冬場であれば、鴻月から八景のひとつである「富士の白雪」を眺めることができたのであろう。この八景とは「富士の白雪」、「葛西の落雁」、「安國の晩鐘」、「武蔵の晴嵐」、「利根の帰帆」、「戦場の夜雨」、「赤壁の秋月」、「市川の夕暮」を意味し、これは『市川市勢総攬』によると、「八景詩」として国府台の風景を市川町助役が詠んだものとされている(『市川市勢総攬』市川市勢調査会、1934年、P42)。
 終戦前、国府台地域は三業地であったため、置屋も複数あった。市川市には3つの見番があり、鴻月は国府台の市川三業地組合に属していた。
 鴻月には戦後、江戸川乱歩やサトウハチロー、井上ひさし氏らのような著名人が訪れることもあった。しかし、1976年に行われた江戸川の土手の造成工事のために、国土交通省より立ち退きを命ぜられたことで、鴻月は閉業する。
 この際に、「さよなら鴻月」という催事を行った。この催事では、多数の芸者を呼んで舟に舞台を設けたり、それまで江戸川の魚で商売をさせてもらっていたことに感謝して、魚を放流するなどした。併せて、由緒のある人から寄稿された文章を載せた*パンフレットも作成されたという。
*このパンフレットは現存していないものだろうか。誰かお持ちでしたらぜひご提供を。

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