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里見公園新聞

里見公園新聞 第68号 2010年10月15日  発行:木ノ内博道

里見公園の考察
 ここになぜ里見公園があるのか。確かに里見氏もここで戦ってはいるが、2度とも敗れている。里見公園について考えてみるとき、<人は物語を紡ぐ・地域は物語の宝庫>であることがよく分かる。
 今回はそうしたことを書いてみたい。

◎物語が紡がれる事例<鐘が淵のこと>
 本紙2号で、公園内の里見茶屋の岡田さんに話を聞いたとき、パウラスさんの話になった。戦前と戦後(戦中は帰国)にエーネ・パウラスさんがこの地にいた。子どもの福祉のさきがけとも言える人で、戦後保育園ができたとき、この辺の人はみんなその保育園に通ったもの。その人がこの地にいたから国府台は戦争で爆弾を落とされず、緑が残ったんだよ、と話していた。まさかそんなことはないと思われるが、国府台の緑の多さをそんなふうに感じている人がいるんだと、聞いた時に思った。人間はそのまま感じているのではなくて解釈をしたがる存在なんだと。

田中酒店の庭に祀られている社
 次の号では、岡田さんに紹介されて田中酒店のおじいちゃんにお会いしてお話を聞いたことを書いた。田中酒店の庭には祠がある。おじいちゃんの話では、江戸川の岸にある松が台風で倒れて兵隊に片付けてもらった。まき割りでも割れない木の根っこを縁側の靴脱ぎ台に使おうともらってきた。忘れたままになっていると、次々と家に災いが起こる。祈祷師に見てもらったら娘さんの霊がとりついている。里見家に由緒のある高貴な方と言う。祠を作って懇ろに祀った。
 その松の木は鐘掛けの松の根だったかも知れない。あるいはその近くの松。国府台の戦争に纏わる伝説で名高い松の木。鐘を鳴らして討ち入りの合図に使うため船橋の寺からもってきた。戦争に勝った北条の武士が撞いても音がしない。負けた方の身寄りの娘さんが戦場にやって来て、父の首だけでももらって帰りたい、供養をしたい、と話す。「それならこの鐘を鳴らしてみろ」。娘さんが撞いたら大きな音がして、そのまま鐘は水中に沈んだ。そこを鐘が淵と呼んだ、という伝説。
 鐘が淵というのは随所にある。川の、カネ尺のように曲がった所を言う。曲がったところはえぐれて深くなっている。カネ尺のカネはいつか鐘に転じた。鐘が沈んでいる淵から、鐘をぶら下げた松の枝が想起されて、鐘掛けの松伝説が生まれた。

◎里見公園の物語的側面

 国府台一帯は戦国時代に2度にわたって戦場となった。
江戸時代になって国府台に総寧寺という寺が関宿から移設された。大名格の寺として遇された。300人もの住職がいたと言う。
 房総方面から謀反が起きた場合の、守りのために置いた、という説がある。また、3代将軍徳川家光がこの地を絶景と称えた、ことによるとも。俗説には房総に根強い日蓮宗から守るためとも。
 ところで、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が出版されてから、里見家の戦場となった場所としてこの地が注目された。
 史実は小説と違いこの地で負けている。戦死した武将の鎮魂をしようと「里見諸氏群亡の塚」が江戸時代末期に作られた。里見氏由来の地として注目されたのは江戸時代後期、八犬伝によって、と言うことになる。
 明治に入って、総寧寺は大幅に縮小された。総寧寺の土地の一部が里見公園として提供される。それがいつのことかは不明だが、「里見公園」という名称の確認ができるのは大正2年。湯島の小学生が里見公園に来て事故にあった(三体地蔵・国分寺)。現在の公園の半分は陸軍病院が終戦まであった。
 大正11年、里見公園に『里見八景園』ができる(昭和8年まで)。

◎里見八景園について
 拝島氏と佐々木氏によって、里見公園に一大遊園地構想が練られる。拝島氏は公園の下に「鴻月」と言う料亭を開き、八景園の来場者を誘導した(八景園から鴻月に続く道の跡がかろうじて残っている)。佐々木氏の自宅は八景園のなかにあった。
 宣伝からうかがえるのは、誇大広告的なこと。東洋一の大遊園地、大滝大水浴場、近く温泉を掘削とある。不思議なのはプールの存在。国府台一帯は水に不自由していたはず。八景園のそばに水道組合ができたのもこの時期だったので、八景園構想には初めから水道組合がからんでいたとも考えられる。
 初期費用は当時のお金で12万円とも30万円とも言われている。広さは1万坪。来園者数は1日1000人と記録に残っている。
 里見八景園は大々的に宣伝され、うまくいっているように伝わっているが、総寧寺の借地だったためにさまざまな困難に出会っている。京成電鉄に売却のうわさが流れたり(大正14年)、総寧寺が八景園の借地権を二重に設定して悶着が起きたり。

今も残る八景園の名残り
 そして昭和8年に閉園。悶着もあったかも知れないが、時代は戦争へと突入していく。遊園地の時代は終わりを告げていたのだろう。閉園後も動物の檻などは長らく残っていたし、橋や滝などの面影は現在も残っている。
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  国府台は古戦場ではあるが、里見家と因縁があるとして話題になってくるのは江戸時代後期から。そして明治に入り、総寧寺の窮状から境内の一部を里見公園とした。その公園に里見八景園ができた。
 現在の里見公園のもう半分は敗戦まで陸軍病院があった。
 里見八景園は語呂が里見八犬伝に似ている。景色のよいところを中国の名勝になぞらえて八景と呼ぶならわしは各地にあるが、里見八犬伝でも八という数字がキーになっている。犬の名が八房だし、数珠の大玉の8個が各地に飛び散って八犬士の物語が始まる。実は八と言う数字は北斗七星信仰である「妙見信仰」のシンボルであり房総一帯に広まっていた。千葉氏も家紋に使用しているし、千葉神社の由来も妙見信仰に深く関連している。
 房総を舞台とした一大幻想小説「八犬伝」から「八景園」というあだ花が咲いたという感じもする。
 ひとつの公園の由来も、人の想いによって紡がれた物語のひとつだった。

里見公園についての話題

バラ園
藤棚
紅葉
紫烟草舎(北原白秋)
明戸古墳
羅漢の井
国府台城址(大田道灌)
古戦場
総寧寺との因縁
里見八景園と料亭鴻月
夜泣き石
里見諸氏群亡の塚
里見諸将霊墓
夕日(富士山・スカイツリー・江戸城が東に)
鐘ヶ淵・鐘掛けの松
物見の松
陸軍病院(里見分室)
市川市一の高台
心霊スポット
陸軍の大井戸
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