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里見公園新聞

里見公園新聞 第67号 2010年10月12日  発行:木ノ内博道

里見公園の沿革
 里見公園の名称はいつから使われてきたのだろうか。実はそれがよく分からない。大正2年までは遡ることができるが。
◎国府台一帯
<古墳時代>
 墳墓が多く存在する。もう少し広域で見ると貝塚も。公園内に明戸古墳の石棺が、東京医科歯科大学敷地には法皇塚古墳がある。2つの古墳の石材は、明戸古墳は筑波山の方の石材、法皇塚古墳は鋸山の方の石材だという。古墳時代から水路によって交易が行われていたと思われる。明戸古墳から出土した埴輪などは総寧寺で保管したと言われるが現在はない。
<律令時代>
 下総国府が置かれる。
<戦国時代>
 2度の戦いの戦場となる。天分7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦う。北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦。この合戦でも北条軍の大勝で終わる。
◎里見公園一帯
<江戸時代>
 総寧寺が移設される。寛文3年(1663)徳川4代将軍家綱のとき関宿から。その時の里見公園あたり――古書によると「寺中には山林も竹林もなし、大門に今ある道灌榎2本のみあり、故に万里みえ渡りて草茫々たり、枯骨所々にるいるいとして至る人稀なり、真に飛鳥たらず、毛ものして群を失う古戦場なり。それのみならず、雨天の節は魂魄叫びて悪風砂石を雨降らす。夜深更に及んでは亡卒集まって猛火をたき、刀杖弓箭の音止む事なし」。
 江戸時代後期、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』発表後、国府台に「里見諸氏群亡の塚」「里見諸将霊墓」が作られる。戦いは1564年、群亡の塚ができたのはその255年後。「里見八犬伝」が書き始められて15年後。28年がかりで書いた小説が江戸中で評判になっていた頃。
<明治時代>
 明治7年、国府台一帯の土地を国が買収。明治18年、教導団が国府台に集結。後、陸軍の練兵場に。総寧寺は廃寺寸前までに追い込まれる。明治32年、教導団病院設置。後、昭和11年陸軍病院となる。

<大正時代>
 大正2年、湯島の小学生が里見公園に遠足。水難事故にあう。三体地蔵が祀られる。山本有三の『波』は大正12年新聞連載される。
 大正11年、里見八景園が開園される(里見公園内に作ったと記録)。
<昭和時代>
 昭和8年、里見八景園が廃園に。昭和9年の台風で松が何本も倒れる。陸軍病院移設、ここは里見病室(精神科)として残る(昭和13年)終戦で廃院(陸軍病院は昭和20年12月1日国立国府台病院に改称)。水上勉の推理小説『巣の絵』(新潮ポケット・ライブラリ、発行1962年12月。20日)里見公園の情景が出てくる(殺人事件)。
 昭和34年、市川市の公園となる(現在の里見公園)。昭和40年代に市川駅のバラ園を移設(昭和28年ごろ市川駅から・複々線工事のため)。昭和40年代に“もの見の松”が倒れる。
 昭和44年、小岩から北原白秋の旧宅「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」を移設。
 平成18年、バラ園が開設20周年を迎えバラ園を充実させる。
 平成20年、羅漢の井、改修。
 平成22年、矢切りの渡し・毎年5月に実施されていた里見公園までの渡しがこの年からなくなった。
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