目次へ 写真はクリックで拡大します
里見公園新聞

里見公園新聞 第66号 2010年8月12日  発行:木ノ内博道


今も残る公園から鴻月に下る階段
国立国府台病院の中に釣り堀があった?
 1年ほど前、国府台病院に入院した時、この辺をよく知っているおじいちゃんが、この病院のなかには釣り堀があったと話していた。病院の中に釣り堀とは不思議な、と思っていた。
 8月11日に「つぎはしの会」があったので、その話をしたところ、“つぎはし”店主の帆刈隆一氏が病院のことを知っていそうな人に電話をかけてくれた。その友人の話では、病院の中庭に防火用の貯水槽があった。そこで子どもたちが釣りをしていたことがあった、とのこと。防火の貯水槽ということであれば理解できる。聞いてみるものである。
 この国府台病院も建て直すことになっていて、着々と工事が始まっている。それで残念なことがひとつある。
 今は数少ない白いタンポポの群生地が、塀の工事でアスファルトになってしまった。この6月のことである。

陸軍病院で手紙を託された思い出
 「つぎはしの会」で、国府台陸軍病院の話になった時、押田さんが子どもの頃の話を始めた。
――小学生の頃だから昭和13・14年の頃、病院の前を通ると入院している兵隊から隠れて手紙を託された。一人だけでなく何人からも。検閲を避けていたんだが、割合問題もなく、小学校では立派な軍国少年だとほめられた。時には寄っていけと病院の中に入って、話を聞かされた。傷痍軍人の、負傷した傷跡、玉の貫通した腕などを見せられた。手紙は傷痍軍人からだけでなく、病院で働く人からも預かった。
 昭和13年と言えば病院が現在のところに移設された時期。一方、里見病室については、こう話していた。
――精神病院で、鉄格子があった。牢屋だね。そばを通ると、なかで「突撃!」とか叫んでいる人がいた。

里見病室の名残り
 『国府台陸軍病院の想い出』には里見病室の略図が載っている。それによると、入口は現在の正門と同じ。正門を右方向に下っていくと玄関がある。この小さな坂道を「つつじ坂」と呼んでいたようだ。
 現在でもここにつつじが植わっているが、ホームレスの荷物置き場になったり、人が隠れられるので、物騒なので昔ほど見事なつつじではない。
 現在のコンクリート塀は、あまり話題になっていないが、当時のままのようだ。

スカイツリーが西に
 秋から冬にかけて、国府台から富士山が西に見えて、ダイヤモンド富士が見られる。里見公園の展望台から西を望むと、皇居もほぼその方面である。さて、最近建設中のスカイツリーもまたほぼ西に位置する。
 江戸時代、江戸の町は風水によって設計されたと言われているが、まさか、スカイツリーも風水によって場所を決めたというようなことがあるだろうか(皇居から見て東)。
 皇居から東に位置する国府台は、方位学から見てどうなのだろう。明治天皇が崩御された折、明治神宮を国府台に作る案があった。明治初期には東京大学を作る話も浮上した。幻だった日本オリンピックも国府台でやることになっていた。どうも案だけで実現の薄い地ではある。
 さて、空気の澄む11月と2月にはダイヤモンド富士が見られ、高価なカメラをぶら下げた人たちが江戸川沿いをうろうろとするが、スカイツリーに落日がかかる写真もこれからの名物になっていくのだろう。
Copyright© Kinouchi Hiromichi. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system