目次へ
里見公園新聞

里見公園新聞 第64号 2010年7月11日  発行:木ノ内博道

■古代の国府台
 里見公園を中心に、何度もズームインしまたズームアウトしてみる。時間を時々で止めてみたり。
今回も、国府台から須和田あたりまでの古代の風景を思い描いてみる。
 もともとこの地は数万年前まで遡ることができるだろう。縄文の頃はこの辺だけ陸地で貝塚などがある。また、古墳が点在する。そしてやや具体的に思い描くことができるのは、大化改新以降のことである。
 『いちかわ再発見』にこうある。
「房総の地は、いまの埼玉県・東京都・茨城県の一部を合わせて、ひろく「総」といわれていた。大化改新の後、これを上総、下総の2国にわけ、さらに上総から安房が独立した。各国には、国府と呼ばれる都市が置かれ、国司(長官)はそこの国庁(役所)にいて政治に当たることを原則とした。
 市川は下総国の国府所在地である。国庁の位置は、現在の国府台の一画に求められている。それは府中とか国府台など、地名として現在でも残っていること、また、市営陸上競技場の脇に、かつての六所神社があったことなどに起因している。
 六所神社というのは、国司が一の宮から六の宮までの宮を参拝することが、年中行事の一つになっており、それに要する費用と時間の無駄を節約するために、宮を一ヶ所に統合した神社をいう。それは国府の近くに置かれた。
 ちょうどこのころ須和田の当地には、大集落が営まれていた。ここは、七世紀から九世紀にかけて栄えたムラである。特に、奈良時代には、すぐ北側の台地に国分寺が建立された。推定、方二町の寺域をもつ大きな寺である。そこには金堂をはじめ、講堂、七重塔などの大きな建物がそびえていた。
 朝な夕なに、国分寺で打ち鳴らす鐘を聞きながら、ムラ人は一日の活動を開始し、そしてまた一日を終えるのである」。

■国府台陸軍病院のこと
『国府台陸軍病院の思い出』(発行・国院会誌史編集委員会・昭和57年5月10日・非売品)を読んだ。里見公園ができる前、この地に明治18年教導団病院として設立されて以来、昭和33年まで存続した病院であり、昭和57年当時存命した関係者が手記を綴ったものが本書である。
 里見公園は病院撤去後に市川市の公園として正式な公園となったが、大正時代、隣接して開設された里見八景園の写真に里見公園とあるので、当時から呼ばれていたものだろう。
 それにしても陸軍病院と里見八景園は隣接していたにも関わらず、本書には八景園の1文字も出てこなかった。八景園は昭和8年に閉園しているから、それ以後の人たちの手記に登場しないのは当然と言えるかも知れないが、現在でも八景園なごりの痕跡があるくらいだから、話題になってもいいだろうに、と思う。
 陸軍病院と東洋一を目指した遊園地が隣接していて、いまはひとつの公園となっているのも、考えようによっては面白いといえる。かたや国家の存亡を賭けた陸軍の病院があり、昭和13年以降は陸軍の精神病院となっている。かたや庶民が浮かれ楽しむ遊園地。しかも、病院関係者は、坂下のカフェなどで娯楽を楽しむことはあっても、隣接した遊園地のことはまったく知らないらしいのだ。
Copyright© Kinouchi Hiromichi. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system