目次へ
里見公園新聞

里見公園新聞 第62号 2010年3月22日 発行:木ノ内博道

■江藤淳のこと
 月一回、真間のつぎはしの傍にある喫茶「つぎはし」で勉強会を開いている。というより、数人で集まって話すだけだが。
 3月17日の例会で、常連の一人である福島俊男さん(大正14年生まれ・84歳・以前とび職)が、なにげなく「我が家に文学評論家の江藤淳さんが夫婦で風呂に入り来ていた」というので驚いた。江藤淳といえば奥さんを亡くしてから1年にもたたずに後追い自殺をした。福島さんの話でも「お風呂には夫婦で入っていた」という。借りに来て夫婦で入っていたというのもなかなかのおしどり夫婦だが、美人の奥さんだったという。
 江藤淳の略歴でみると、市川には昭和39年アメリカ留学から帰国して直後に住んだとある。すでに昭和32年ごろから文壇批評家として活躍し注目されている。安岡章太郎の『自叙伝旅行』によると留学から帰ってきて住んだ「渋谷のアパートはひどく喧しかった。それで、今度は別の知人の好意で、千葉県の市川に移った。ここは母屋がとりこわされて、20坪余りの2階建ての離れだけが残っているという妙な家である」。
 秋から暮れにかけて2,3カ月住んだようだ。福田さんの話によると、隣にあったのは台東区柳橋「亀清楼」の別荘の離れで、当時別荘は取り壊されていた。住むようになったのは奥さんが以前「亀清楼」の若旦那の家庭教師をやっていたご縁によるものだという。亀清楼といえば江戸時代の安政元年の創業だというから伝統がある。
 これを聞いていた東さんが「私も近くに住んでいたから、奥さんが空き地に洗濯物を干すのを見かけた」と話し始めた。当時としては珍しく、家のなかで飼う犬がいたという。福島さんは、その犬を風呂に来るときは風呂敷にくるんできた、と話す。記憶は誰かの記憶に触発されるもののようだ。犬の名前がダーキイということでも盛り上がる。たしかにそう呼んでいたと。
 ところで99年7月21日の自殺した時に、自宅にはこのような遺書が残されていた。文学評論家にふさわしく名文。
 ――心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成11年7月21日 江藤淳。
 また犬ダーキイについては上記写真のような『犬と私』(江藤淳 三月書房)という本もある。
 江藤淳夫妻は大学時代に同級生で恋愛結婚。夫妻は仲が良く、一卵性夫妻と呼ばれていた。4歳で母を失った江藤淳にしてみれば母のような存在でもあっただろう、と知る人は言う。奥さんが末期ガンだと知って渾身の看病をしたという。しかし看病もむなしく闘病8カ月で他界。そして1年もたたずに江藤淳も世を去ることとなる。
Copyright© Kinouchi Hiromichi. All Rights Reserved.

inserted by FC2 system