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里見公園新聞

里見公園新聞 第61号 2009年9月1日  発行:木ノ内博道


明戸古墳の2つの石棺
■明戸古墳の石棺
 里見公園内の丘の高みに明戸古墳の石棺が二つ露出している。これは古くから知られていて、『江戸名所図会』にも紹介されている。
 「石棺二座同所にあり、寺僧伝え云う古墳二双の中に北によれるものは里見越前守忠弘の息男同姓長九郎弘次といえる人の墓なりという一ツは其主詳なしとて或云里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと中古土崩れたりとて今は石棺の形地上にあらわる其頃棺中より甲冑太刀の類および金銀の鈴陣太鼓其余偶人等を得たりとて今其一二を存し総寧寺が収蔵せり云々」。
 随分といい加減な坊主である。ただ、この記述によると、甲冑や埴輪も出土したということが分かる。最近の調査によると、石棺が安置されていた一段高いこの場所は古墳の一部であるらしい。以前、江戸時代に移動したという話を聞いたことがあるが、そういうことはなかったらしい。
 現在定説となっているのは、この明戸古墳は前方後円墳で、石棺のある位置が後円部にあたる。主軸は南方約300メートルのところにある法皇塚古墳と同様に北西の方向に向いている。前方後円墳の向きというのはなにか意味があるのだろうか。

■法皇塚古墳について
 明戸古墳に触れて法皇塚古墳に触れないわけにもいかないだろう。
 国府台病院の通りから里見公園の方に入ってくると、右手、東京医科歯医大学のキャンパス内にある。市川市では最大規模の古墳だ。
 松戸栗山から国府台にかけて古墳が密集していたらしいが、現在は宅地の造成で破壊されている。8基が現在でも確認できるが、前方後円墳が3基、円墳が5基。
 法皇塚古墳を手元の資料から紹介すると、
「埋葬するところは後円部に設けられた横穴式石室で、そこは軟質の凝灰岩や硬質砂岩などを積み重ねて造られていた。床面は板石を亀甲張りしたもので、そこからは著しい量の副葬品が発見されている。いま副葬品の主なものをあげると、甲冑、太刀、鉄ぞく、金張りの馬具、銅釧、ガラス丸玉などで、このような豊富な副葬品をもつ古墳は、下総南部においてはいままでみられなかった」(『いちかわ際発見』市川ジャーナル社)。
 ところで、明戸古墳の石材は遠く常陸の国(筑波山)から運ばれ、法皇塚古墳の石材は上総(鋸山)の方から運ばれたものだと聞いたことがある。二つの古墳の石材からでも交易が古くから広く行われていたことが分かる。

■Wikipediaの里見公園
 ウィキペディアの「里見公園」が比較的詳しいので驚いた。ただ、里見八景園の閉鎖後に施設で里見公園ができたとある。以前、里見八景園の写真を見ていたとき、「里見公園」の看板があった。あれは何だろう。
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