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里見公園新聞

里見公園新聞 第60号 2009年8月30日  発行:木ノ内博道


4坪ほどの所に松が植えられ開拓記念碑がある
■東台開拓記念碑
開拓30周年誌には、昭和47年、開拓行政が一般農政に移行されることが載っている。そこで、昭和50年に開拓記念碑建立委員会が設置され、碑が作られたとある。
碑があるという中国分の西部公民館を訪ねると、確かに一角に碑があった。
30周年誌にも写真は載っているが、あたりは空き地。ところが現在では建物のすき間に申し分けなさそうに建っている。
碑にはこう書かれている。

 昭和20年8月15日太平洋戦争が終結し、明治18年より使用された此処旧陸軍東練兵場にわれら復員軍人等が入植し混乱する社会の安定と食糧確保を目的としてこの荒野に開墾の鍬を下ろした。
 そして昭和23年東台開拓農業共同組合を結成し、組合員の一致団結と不撓不屈の努力により40余ヘクタールの荒野を開墾、作物の生産、酪農、養鶏等の事業並びに農村工業としてのパン工場を経営し、新農村の建設が成りその目的を達成した。
 この開拓縁の地である西部公民館の敷地に入植30年を記念し、その業績を永く後世に止むるため組合員の氏名を刻し、茲に開拓碑を建立する。
昭和50年12月14日   
                       東台開拓農業共同組合
                               組合員一同

■中国分に競馬場ができたかも
 さらにわき道に逸れるが、30年誌には「開拓の発展に伴う諸問題」として、競馬場設置問題について触れている。こんな一文が載っている。
 「昭和27年に市川市長浮谷竹次郎氏より中国分開拓地内に競馬場設置につき申入れがあったので、総会において審議した結果別紙のとおり条件を付して同意書を提出したのである」。
 開拓者として生活がかかっていたので厳しい内容の同意書であったため、逆に競馬場の設置は中止となった。もしそうしたことがなければ、今頃、国府台自動車学校もなかったろう。しかし、中山競馬場のように発展していたとは言い切れない。

■北原白秋は国府台をデートしたか
 白秋の紫烟草舎が里見公園にあることについては38号で取り上げた。人妻と恋愛事件を起こして転々とした後、新しい女性と真間の亀院に居を構える。当時工事中でうるさく、2ヶ月とは居ないで小岩に移っている。
 ところで、どうして真間の亀院に居を構えることになったのか。万葉集の歌に惹かれてと一般に言われているが、人妻との恋愛で国府台をデートしたことがある。その縁で真間に来たと誰だったかに聞いた。しかし、全集などをみても分からない。誰か知っている人がいたら教えていただきたい。
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