目次へ
里見公園新聞

里見公園新聞 第59号 2009年8月16日  発行:木ノ内博道


注意して見るとこんな看板があった
■引き続きパウラス先生の思い出
 『東台開拓30年誌』にあるパウラス先生の思い出をさらに紹介していこう。桜井清夫氏の一文にはこうある。
 「保育にご協力をくださったパーラス宣教師の慈愛も忘れることのできない思い出である。当時物資不足の折りアメリカの衣料の配給を頂いて婦人達がヒラヒラのついたワンピースを、あるいは赤青色とりどりの子供服を着せられたことも愉快な思い出であった。パーラス先生は大変に鶏肉の好きな方でクリスマスには4,5羽お届けしたことも忘れられない」。
 松村与太郎氏の一文には、
「戦争中キリスト教は黙殺の形でありましたが、敗戦とともに活発化して米国の有数のルーテル教会が広島を本拠とし、東京は四谷に支部を設け教意の拡張に乗り出してきました。その宣教師として戦前から国府台に住んでおられたエーネーパーラス先生が戦後日本に帰られて来たので、まず当組合の幼児託児所の計画をされ、小さい時からキリスト教義の涵養が大切である理由もあり、また、当組合も寸暇を惜しんで働いているので、小児を預かってもらえば好都合であることで、開設の運びとなり建物を提供して始めました。この刺激で八柱と旭ヶ丘等にも開設されたと思っております」。

■東台開拓のパン工場と山崎製パン
 高台の国府台では水不足のため稲の栽培には不向きである。農林省は緊急食糧増産対策として製粉器と製パン用具を国府台入植者に斡旋した。農村工業としての製パン事業が始まる。昭和22年のことである。
 食糧事情のわるいなかで、近隣だけでなく流山や六実方面にも出荷するが、昭和34年頃から、製パンのオートメイション化が進み、組合経営の限界を感じて昭和36年にパン工場を閉鎖する。販売店では山崎パンを販売することにした、とある。
 山崎製パンの沿革をみると、創業者飯島藤十郎により、昭和23年、千葉県市川市に山崎製パン所を開業、とある。東台開拓民の人たちが製パンを始めた翌年のことである。
 関係はないのかと思い、『東台開拓30年誌』を調べてみたら、山崎製パンの創業者である飯島藤十郎の名前が昭和21年の開拓民名簿にあった。桜井清夫氏の「開拓30周年を迎えて」にこんな一文がある。
 「昭和26年頃より離農する仲間も現れてきた。山崎製パン社長飯島藤十郎氏も例にもれない人だが、現在は日本の製パン業界の第一人者として成功しておられることは私達の誇りであり云々」。
 開拓者として入植し、独立して山崎製パンの会社を起こして、事業を拡大した。それにしてもなぜ社名が“山崎”なのだろう。開拓者のなかに山崎石五郎という人がいるが、なにか関係はあるのだろうか。山崎製パンでは「創業者の飯島藤十郎の妹の夫であった山崎要太郎の姓をとってつけた」とのこと。
Copyright© Kinouchi Hiromichi. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system