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里見公園新聞

里見公園新聞 第58号 2009年8月16日(日) 発行:木ノ内博道


昭和22年 右端がパウラス先生
■エーネ・パウラス先生を探して
 『東台開拓30年誌』、これは昭和52年に発行されたものだが、昭和20年に敗戦となって、復員軍属の人たちなどが食料緊急増産のために、国府台東練兵場に入植して、開拓者として村づくりを始めた、その記録である。東練兵場というのは中国分にあたる。地域の人たちは入植の話を語らないので、これまで不覚にも知らないできた。
 入植者は、東練兵場でもあり台状になっていることから東台と呼ぶことにしたという。農業に慣れない人たちが開墾を行うのだから、筆舌に尽くせない苦労をする。
 戦後の昭和20年10月頃から開墾を始めたが、幼児を抱えての開墾作業はとても困難で、幼児を畑のすみに寝かせて傘をさしかけて置いて作業をしていた。
 「たまたま昭和21年に米国人エーネーパウラスさんがこの地に現れ、幼児の面倒をみてあげるとの申し出があったので、早速元のパン工場わきのバラック兵舎を利用して、保育業務が開始されたのであった。その後、22年には中国分1の1番地宅地163坪の組合有地内に所在した高射砲隊の仮設兵舎を利用し、東台保育園と命名して本格的に保育事業が開始されたものである」とある。以来5年の間に500人から600人の幼児がこの恩恵に浴した。
 「この恩恵に報ゆるため、国府台、庄司医院長さんのお骨折りで、近くは国府台、中国分、稔台、その他東京、九州、東北方面まで勧誘され、関係者より謝恩金を募集され、総額100万円余を昭和50年に米国に帰国在住中のエーネーパウラス様に贈呈申し上げた次第であります」。
 さらにこんな記述もある。
「昭和46年3月14日保育園閉鎖につき永年にわたる謝恩の意味をもって、東台組合より市川市を通じて、千葉ベタニアホーム理事長三浦義和氏宛に金300万円を寄贈した次第である」。
パウラス先生、戦後再び日本にやってきてこんな活躍もしていたのである。

■開拓者のパウラス先生の思い出
 本書には、開拓者の思い出が綴ってある。パウラス先生に関する記事を紹介しよう。
 亀山竹蔵氏は「その後本格的な野菜作りをやるようになり、車の必要性を感じ、たまたまパーラスさんと知り合い、そこで働く太尾さんとも知り合い、現在使用していない乗用者を改造したトラックを見つけたので借用方をお願いすると、こころよく貸してくれることになり、私は喜んで1日半がかりの整備でエンジンが始動していましたが、タイヤが一本ダメ、早速小岩まで行き中古のタイヤ1本を買いなんとか動くようになり、永光工場に3日間入院整備のために家に持ってきたときは天にも昇る心地だった。車は31年型のフォード、時々パーラスさんも使うということでボデーにはチルドレンパラダイスとかきました。このパラダイス号が私の生涯にまた忘れることのできない協力者となったわけです」。
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