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里見公園新聞

里見公園新聞 第36号 2009年8月11日(日) 発行:木ノ内博道

■三体地蔵の真実
 真間の喫茶店「つぎはし」で月1回“つぎはしの会”をやっていることについては先に書いた。
その6月の会合に調海明(しらべかいめい)さんをお招きした。調さんは福岡県大川市の出身。同郷の詩人・北原白秋を調べていた。白秋の江戸川区小岩に構えた住居が里見公園に移築されたのを見る途中、下総国分寺に寄り三体地蔵を見たという。三体地蔵についてもあらましはすでに紹介した。以下は調さんの話。
 由来碑には1917年(大正6年)5月6日、本郷区(現文京区)湯島尋常小学校の児童が遠足で里見公園を訪れた帰途、江戸川で渡し船が転覆、児童3人が水死していた、とあった。ところが、調べてみると大正6年は大正2年の誤りで、当の学校には事故の記録が残っていなかった。元編集者の調さんは探究心に火がついた、という。
 事故は当初、学校の責任を問う声が大きかったが、次第に「児童が流木に手を伸ばしたのが転覆原因」と話は落ち着いた。
 責任の所在があいまいなままとなった背景には、当時の鉄道利権が絡む政治的判断があったと調さんは考える。事故の前年に開通した京成電鉄が管理していた渡し船には「定員の2倍近い34人が乗り、川の真ん中ごろに来たときには、船縁まで水が迫っていた」と無事だった元児童が証言した。しかし、船頭が罰金刑を受けただけにとどまった。経営側や学校の責任は問われず、生徒に責任を押し付けた形となった。
 調さんが会社勤めのかたわらで調査に打ち込んだのは、15年ほどまえに、転覆した渡し船に実際に乗っていた元児童と、この事件を世に明らかにする約束をしたからだという。当時91歳だった男性は、病床で「乗船したときはすでに腰を下ろせないほど船底に水がたまっていた」と事故以来はじめて証言したという。
 水中に落ちたこの男性の足に何かが触れる感触があったが、それを振りきって浮き上がった。男性は伝染病研究に長年携わり、多くの命を救ってきた人だったが、「自分のせいで友達が死んだ」と悔やみ続けていたという。男性は、調さんが話を聞いた翌年に亡くなった。
          
 この遠足、湯島の小学校から歩いて市川まで来たというので、調さんも実際に歩いてみたが、小学生が1日に往復できる距離ではなく、開通したばかりの京成線を利用したのではないか、しかし江戸川の部分は開通しておらず渡し船での交通だった。なぜ京成線を使わないことにして、歩いたことにするのかもおかしい、と調さん。
 幾つかの記録をみても流木が船にぶつかって子どもたちが驚いたとかボラが跳ねて子どもたちが一方の船ベリに寄って転覆したとか、いかにも見てきたように記録されているが、しかし一つの理由ではない。
 当時、子どもの遠足の事故が相次いでいることに調さんは気がつく。たとえばこの事故の1ヵ月後、島根県太田市にあった川合尋常小学校の子どもたちが山陰線の工事を見に行く途中で船の転覆事故があり日本海で女子児童16名が死亡。またそれから2ヵ月後の8月26日には長野県上伊那郡の小学生11人が修学登山の最中、中央アルプス・木曾駒ケ岳で凍死した。この遭難は新田次郎の小説「聖職の碑」の題材となった。死亡した教師は「聖職」と称えられた。
 先生の犠牲は碑が作られたりするが、子どもたちの事故は記録にも残らないという。
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