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里見公園新聞

里見公園新聞 第54号 2009年8月3日(月) 発行:木ノ内博道

■国府台陸軍の変遷
 『市川市国府台における砲兵隊・工兵隊の記録』(武井順一著 1997年発行)に国府台陸軍の変遷が手短にまとめられているので紹介しよう。
――1886年(明治18年)東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、市川の砲兵隊の幕開けとなった。歩兵大隊が移転、病院が現在の里見公園内に新設された。翌年には砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の移転が終了した。
 教導団が来たので、市川〜松戸間に広い道が必要となり、この頃、千葉町から囚人達をつれてきて道路建設に従事させた。これが現在、旅団坂といって和洋女子大学前へ通ずる坂の道で、松戸へぬける新道(松戸街道)である。道路建設で死亡した囚人達の墓が、堀之内貝塚のがけ下にあるという。
 従来の道は巾が狭く、筑波付属ろう学校内を通り、市川一中をぬけ、東京医科歯科大学の裏門に出、理髪店の間のまがりくねった道が松戸にぬけていた(江戸名所図絵にでている)。戦国時代、国府台の合戦で、小田原の北条軍と対戦した里見軍は、この道を通って松戸へ敗走した。現在も「東桜陣」や「西桜陣」と言った地名が残っており、里見軍が陣をしいた場所である。

■里見公園の病室
 また、本書には里見公園内の神経症患者の病室の記事があるので紹介しよう。
――国府台に陸軍の教導団が東京から移転してきた時、教導団の病院として新設されたのが里見公園内であった。昭和10年代に、道ぞいの病院が新設されたので、ここは病室として利用された。戦場に出陣して神経症となったり、ヒコーキの搭乗員の中には神経症となる人が出てくる。そういった患者を収容したのが、ここの病室である。正門を入った所に病棟があり、窓は鉄格子となっていた。
 昭和34年頃病室は里見公園にかわったが、土地を整備した時、井戸や建物の基礎が出ている。
 里見公園の高台になっている所は、地下にトンネルがあった。このトンネルは陸軍の飛行隊が帝都防空の本部として掘ったものである。松戸や柏には陸軍の帝都防空飛行隊があり、昼夜、B29や米軍の戦闘機と死闘をくり返していたのである。その本部として地下要塞が作られたのである。戦後、トンネルは埋め立てられて今は何も残っていない。4〜5年前迄防空壕が1つだけ残っていたが、それも今は埋められている。里見公園内にトンネルがあったという事を知っている人は、わずかになった。


■陸軍と書いた石柱
 続いて、この本には以前本紙(32号)で紹介した陸軍の石柱のことが書かれているので紹介しておく。説明の後に「〜かも知れない」と曖昧さが残っていて残念である。
また、いずれ、陸軍の石柱がこの界隈の境界に何本あるのかも調べたいと思っている。
――里見公園の裏口を出て約500メートル歩くと、下り坂があって江戸川ぞいの道と合流する。坂を下る手前左の台地に、台座跡が残されている。陸軍の用地を示す石柱が1本ある。高さ1メートル位で左側にあり、左をみると白い柵が輪になっている。この柵の中に高射砲がすえつけられていた。この高射砲は使われたことはなかった。見張り跡かもしれない。
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