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里見公園新聞

里見公園新聞 第53号 2009年7月31日(金) 発行:木ノ内博道

■陸軍の大井戸のこと
 平成20年、“羅漢の井”の前の不法に建てられた家を撤去したところ、直径が2メートルもある大きな井戸が2つでてきた。厚めのコンクリートで、意外にも真新しい感じがする。
 床屋に行きがてら、その井戸の話をすると、おかみさんは髭を剃ってくれながら、こんな話をしてくれた。
――私がこちらに嫁いで来た頃、もう家は建っていて小岩の方から来た独身の男性が住んでいた。おいしい水が出るから汲みに来ないかというので、近所の人たちは水をもらいに行ったが、独身の男性でもあり、私は遠慮した。水をもらう人のなかにはお菓子をもっていく人もいて、そのうち、物をもっていくのが普通になって、ますます行きづらくなった。そうしてみんな自然と行かなくなった。――
 ところが、近所の人に聞いても、その井戸がいつ頃なんのために作られたのか知る人はいなかった。ある時、松岡博子さんという人の書いた古い手書きの地図「大正時代の国府台、国分地域」を見ていたら羅漢の井の近くに「陸軍の大井戸」と書いてあった。
なおこの地図に里見公園はなく、今の入り口の方が陸軍病院、後ろが八景園となっている。当時の里見八景園の写真を見たことがあるが、それには里見公園の看板があったように記憶する。

■国府台の赤壁
 『みんなのママサン』(市川緑の市民フォーラム・平成3年7月21日発行)という小冊子をみていたら、国府台の赤壁のことが書いてあった。
明治元年(1868)にできた大判錦絵『利根川東岸位壱覧』(歌川貞秀筆)をみると、国府台の江戸川岸は切り立った崖で現在の景色とは違っており、寛延2年(1749)にできた『葛飾記』という本には「国府台古戦場に題す」という漢詩がでてきて、赤壁という表現がでてくる。江戸川の護岸工事がされていないので切り立った壁になっていた。崩れて赤壁になっていたらしい。赤土は関東ローム層、強い酸性。博物館職員に聞いた話では、そのために戦場で亡くなった兵士の骨も溶けて出てこないという。
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