目次へ (千葉県市川市)里見公園新聞  51号
里見公園新聞

里見公園新聞 第51号 2009年7月30日(金) 発行:木ノ内博道


永井荷風
◆永井荷風と国府台
 永井荷風の日記(昭和21年9月13日)にこんな記述がある。
「国府台上に売家ありときき朝11時頃尋ね行きしが一歩おくれにて既に買手きまりし後なりき、このあたり土地爽塏(そうかい)にして市川の町中より来れば空気更に清涼なるを覚ゆ、粟もろこし岡穂の稲熟せし畠つづきたる彼方に水道浄水場あり、松林あり、回向院といふ寺あり、風景よし、家にかへるに中河与一氏来たりて待てり」
 昭和21年9月といえば、岡山県に疎開していた永井荷風がこの年1月に市川市菅野の杵屋氏の転居先に寄寓、さらに同じ月に菅野の小西方に寄寓、そして22年の12月に菅野に売り家を求めて転居する、その間のことである。
永井荷風は昭和32年にそこからさらに八幡町に転居し晩年まで居を構えることになるが、あるいはひょっとして国府台に居を構えたかも知れない。

◆文芸雑誌『真間』に書かれた国府台
 昭和22年7月1日、文芸雑誌『真間』が創刊されている。発行人は尾崎英一・真間304番地、編集人は猪場毅・真間303番地。非売品とある。永井荷風が題字を書いているし、佐藤春夫が詩を寄せたりしている。戦後まもなくの混乱時にどうしてこのような雑誌がだせたのだろう。
 このなかに「国府台探訪」(磯ヶ谷紫江)という記事がある。国府台のことが非常によくまとめられているので紹介しよう。
――国府台は高野台又は鴻の台とも書いた。昔、日本武尊東征の御帰路に一羽の鴻が江戸川の流れを瀬踏して無事尊を渡し奉ったので、尊はその功を愛でさせ給ひ、勅を請ふてこれを其鳥に賜ふたから鴻の台と称し、下総の府中である故に国府台と書いたといふ。この地は里見八犬伝の遺跡であり、また有名な古戦場で、天文7年10月足利義明と里見義堯と共に小田原の北条氏綱、氏康の軍を迎え撃って大敗したのであるが後に永禄7年正月に里見義弘も北条氏康と戦って敗れた。
 台上に安国山総寧寺がある。永徳3年佐々木氏頼が近江国馬場村に創建し、天正3年北条氏政が下総関宿に移し、水害の多きを以って将軍家綱更に此の地に遷した。曹洞の古刹で江戸時代には、関東総録寺3箇所の一として、宗内僧侶の任免を掌つた所である。昔は老樹域を廻り殿宇巍然たるものであったが、今は見るかげもないまでに頽廃し落莫の感が深い。楼門の傍に夜泣石が移されてあったが、大田道灌手植と称する梅は気がつかなかった。
 城内西桜陣に高一丈二尺五寸の五輪塔がある。正面に「為圭山瑞雲居士」と刻す。寺伝に小笠原島発見者貞頼の墓だと称ふ。寛政重修譜によると圭山瑞雲居士は政信の法号で卒日も亦同じである。寺伝は何かの誤りではなかろうか、関宿城主小笠原政信の墓として正しかろう。総寧寺は寛文2年にこの地に移り、この墓も亦移ってここに改葬されたものである。もとその近傍に貞頼の臣が3年後殉死した墓というものもあったが今は散じてしまった。政信の墓の傍に、征夷府侍医法印稽古斎小川竹塢先生の碑がある。(墓は都内港区笠町長谷寺にあり)碑銘を一読してここに碑の建てられた趣旨が明らかになった。
 天守台の旧址、床几塚、石棺等がからくも残っていることは嬉しかった。ここ城塁の眺めは南は房総の諸山を望み、刀根の奔流は脚下に、西は川を隔てて葛西の沃野を眺め、函嶺の群峰、富士の積雪の秀美、杳霞千里の間に玩すべく、一度訪れて数百年の古へを忍ぶも床しいことと思ふ。――
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