目次へ | 写真はクリックすると拡大します。 |
(千葉県市川市)里見公園新聞 46号 47号 48号 49号 50号 |
■真間の日本福音ルーテル市川教会のこと 地域の新聞を読んでいたら、久しぶりにエーネ・パウラスさんのことが載っていた。パウラスさんは本紙2号でも紹介したが、戦前戦後に国府台に在住し、幼稚園などを作って地域に貢献した人。地域のお年寄りたちは今でもパウラスさんの思い出を語ることが多い。 地域のフリーペーパー『ニューファミリー』11月21日号によると、真間の「日本福音ルーテル市川教会」が9月に市川市から登録有形文化財に登録された、とのこと。「1947年、国府台にあった宣教師エーネ・パウラス女史の自宅で礼拝が開始されたことに始まり、日本で多くの西洋建築を手がけた建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが1955年、現在地に建設」とある。 ときどき真間川のわきを自転車で通りながら、この教会を眺めることがある。昨日も通りがかりに眺めたら、なんと窓にサンタクロースが貼り付いていた。思わず写真を撮った。それにしてもユーモアセンスのある教会である。 数日前、ある会合で、千葉県大原にある「子山ホーム」の森田施設長にお会いした。理事長の大橋さんはパウラスさんの活動を支えてきた人で、ぜひお会いしてパウラスさんのことについて聞きたいと思っていることを伝えた。 地域の人も、そろそろ里見公園の裏にパラダイスチルドレンがあったのを忘れる頃だろう。ここは子山ホームの経営だった。月日のたつのは早くて、そう、里見公園の下に「関西へら鮒センター遊楽園」があったのも、まだ数年前のことだが、はるか昔のように思えてくる。 |
|||||||
市川の真間、継橋のそばに話飲茶屋「つぎはし」がある。ここで本紙を販売していただいているので、ときどき立ち寄る。店主の帆刈隆一氏が郷土になみなみならぬ愛情をもっており、しかも地元の人脈も豊富なので、この店で「つぎはしの会」をやりませんか、と提案した。それが一ヶ月ほど前のこと。 そして、12月11日に第1回の会合をもったところ10名の参加があった。地域に昔から住んでいる人、当地でご商売を営んでいる人、著名な学者など、素晴らしいメンバーである。今後月1回程度集まり、テーマを決めてじっくりお話をうかがっていくことになるので、メンバーについてはおいおいご紹介していくことになると思う。 ■遊楽園のこと 里見公園の下の江戸川沿いに遊楽園という釣堀があって、現在はない、と以前ここで書いたことがある。 12月13日(今日のことだが)、里見公園の羅漢の井のところで一昨日「つぎはしの会」でお会いした方に偶然出会った。これから遊楽園に行くのだという。「なくなったんじゃないですか」と言ったところ、釣堀はなくなったが店はある、ということだった。店主は地元の人で、この辺の事情にも詳しいと言うことなので、連れて行ってもらった。 ご夫婦が経営している店で、酒も飲める、コーヒーも飲める、食事もできる、私好みの店だった。「ここに前からありましたか」と聞いたら、以前は川の方に向いて店があったので分かりにくかったのだろうとのこと。それを道の方に向けた。 疑問に思っていたことを聞いてみた。「関西へら鮒遊楽園という名でしたね。どうして関西なんですか」。てっきり関西にも釣堀があって、その支店だろうと思っていた。 店主の太田さんいわく、関東は鯉を食べる習慣があるが関西では鮒を食べる習慣があって、関西には鮒を養殖しているところがある。その“関西へら鮒”を取り寄せて釣堀をやっていた、とのこと。聞いてみるものである。関西遊楽園ではなく、関西へら鮒を扱う遊楽園だったのである。 話し好きの店主の話はとめどがない。釣堀にやってきた客のこと、地域のあれこれ。入り口に大きな招き猫が置いてあって、背中に落語家の江戸屋猫八のサインがある。釣堀の常連の客の一人だったと言う。 ゆっくり聞いてみたい人がまた一人増えた。 ■里見八景園のこと 里見八景園の資料はないものかと探していたら、市川市の歴史博物館に写真やパンフレットのあることが分かって見に行った。 どうやら個人のものを預かっているので一般には公開していないらしい。写真が約50点。入場のチケットやパンフレットもあった。 どうも自己完結型で、資料のありかが分かると、それで解決したような気持ちになってしまうから不思議だ。 ■『真間の継橋が無くなった』 話飲茶屋「つぎはし」には郷土の資料が幾つか置いてあるが、そのなかに『真間の継橋が無くなった』と題する8ページの刷りものがあった。発行所「つぎはし」。発行日は平成20年7月1日。 ある高名な古代史研究家が市川テレビに出演して「真間の継橋は根本橋だ」とする主張に疑義を唱えた内容である。熊さんとはつぁんが末期高齢者のご隠居に教えを乞う。後期高齢者でなく末期高齢者というだけで十分な皮肉になっているが、古代史研究家の決めつけに対して複眼的な視点でソフトに皮肉に、しかも資料を豊富に引用して反駁を試みている。学ないし知のあり方から言って、こちらに軍配をあげたくなる。 ■ヴァナキュラーとは何か 地元の人に聞いたり、不確かな情報を集めて知や学に挑んでいく、そういう学問はないものだろうか、と考える。 イリイチが「ヴァナキュラー」という用語を使っている。本来の意味は少し違うが、イリイチは「一般の市場で売買されないもの」という使い方をする。貨幣価値、交換価値をもちにくいもの。さらに現代的な意味をもたせたいと考えている。 |
|||||
■謎の建造物 里見公園の「羅漢の井」の向かいに長い間不法建築の家があったが、最近撤去された。と、その後から直径2メートル以上もの大きな井戸のようなものが2つ出てきた。近づけないように柵がめぐらされていて、井戸状のふたの上には一升瓶の日本酒(空き瓶)が置いてある。酒でお祓いでもしたのだろうか。なんだか不気味な感じもする。 家が撤去されてこのコンクリートの堅牢な作り物がでてきたのは、まだ陽射しの強いときだったから、かれこれ3ヶ月前にもなるだろうか。自転車で通りかかっては眺めてみる。近隣の人に聞いても確かなことは分からない。では調べてみようと思って、まず公園内の「緑の基金」の事務所を訪ねた。 あそこは市川市ではなく国の土地だから分からない、財務省の出先機関である千葉出張所に聞いてみては、ということで電話番号を教えてもらった。電話をしてみると、江戸川の河川敷だったら江戸川河川事務所に聞いてみたら、ということで今度は河川事務所に電話をする。と、いや国の土地で国土交通省の管轄だ、という。私の説明が悪くて「江戸川の岸の」と言ったことで勘違いが起こったらしい。 千葉財務事務所第3統括という窓口を教えてもらった。そこの担当者いわく、工事をしたのは私たちであるが、建造物については分からない。ふたがしてあり、安全上問題がないと思われたのでそのままにしてある。陸軍が井戸として使っていたものだろう、と思っている。いつできて、地域の人が使ったものか、そういうことは分からない。酒でお祓いをするというようなことは私たちはしない。誰かがそこで酒を飲んで空きビンを置いていったのではないか、ということだった。 ■ヴァナキュラーな領域 前号でヴァナキュラーについて触れた。イリイチによれば、貨幣経済の登場とともに影の経済領域が生まれたという。その一つはシャドウワーク。家事などの労働のことで賃労働を支えている。もう一つがヴァナキュラーな領域。里見公園の入り口の道は地域の人たちのものだったが、最近は車の交通量が多く、朝夕などはトラックまで出入りする。ヴァナキュラーな領域を貨幣経済的なものが侵している、というように使う。本来、その地に根ざしていたもので、多様な活動の場だったものが、産業に従属するものに変化してしまった。 |
|||||||
夜の里見公園は暗くて不気味。冬にもかかわらず、時々若者たちが奇声を上げたりしている。度胸試しの場所としては面白いと思っていたが、なんと有名な心霊スポットなんだとか。 確かに道具立てはそろっている。古戦場でありここで戦死した者は数千人にのぼる。里見家にまつわる夜啼き石がある。亡霊の碑がある。古墳時代の石棺がある。隣は総寧寺の墓地。何も裏手の方だけではない。正門の方も、終戦までは病院だった。終戦までは精神病院だった。病院であれば、何人も亡くなったことだろう。 夜には公園内に入ってはいけないことになっている。確か、殺人事件があって、それから入ってはいけないことになったと記憶する。以前は自殺者も多かったと聞いたことがある。夜には入っていけないことになっているから、夜間照明の必要もないのだろうが、暗い公園は不気味である。 公園の下の江戸川には水死体が流れつく。流れつきやすい場所なのだろう。最近でこそ車の通りが多くなったが、車の通りの少ない頃は、殺害した人を江戸川の岸に放置していったこともある。数年前にも、岸に近いところにドラムカンがあって、口の方が沖に向いていておかしいというので見に行ったら中はコンクリートで詰まっていた。いよいよ怪しいということになって警察を呼んだ。案の定コンクリートの中から人骨がでてきた。 こんなことから、いったん心霊スポットだと指定されると話が一人歩きする。夜、閉店している売店の公衆電話が鳴り続けていたとか、公園内のトイレで包丁を研ぐ音が聞こえたとか。 若者の間では、妙な情報ほどよく流通する。とくにケータイの登場で不確かな情報が曖昧なまま増幅されたりする。こうした状況をどのように考えたらよいのだろうか。 ■2つの国府台合戦 ブックオフで『戦国合戦100選』(川口素生著、リイド文庫)という本を見つけた。100選には2つの国府台の合戦についても書かれている。 それによると、第一次合戦の日時は天文7年(1538)10月2日〜7日の6日間。第二次合戦は永禄7年(1564)1月8日〜9日の2日間。語り継がれてはいるが、合戦そのものは短いものだった。そんなに長くもない文章なので、紹介してみよう。 <国府台の戦い(第1次)> 室町将軍の支族・足利義明、安房(千葉県南部)の戦国大名・里見義堯らの侵入を相模(神奈川県)の戦国大名・北条氏綱が阻止した戦い。なお、国府台は関東でも屈指の交通上の要衝、軍事上の要地であることから、永禄7年(1564)にも北条氏康(氏綱の嫡子)と里見義弘(義堯の嫡子)との間で戦い(国府台の戦い[第二次])が繰り広げられている。 この当時、義明は下総小弓(千葉市中央区)に居館を構え、小弓御所を称していた。天文7年(1538)秋、義明は義堯と結託し、房総の軍勢を率いて武蔵(埼玉県・東京都)への侵入を企てる。足利・里見方は江戸川の東岸(下総側)にある国府台に陣取り、一気に渡河する構えをみせた。ただ、兵力は千であったというから、味方の軍勢の全てが到着したのではなかったらしい。 氏綱は敵方の動きを居城・相模小田原城(神奈川県小田原市)で知るが、以後の対応は素早かった。10月2日にはすぐに小田原城を出撃し、武蔵江戸城(東京都千代田区)へ入城。態勢を整えた上で、5日に同城を発って国府台近郊へ駒を進める。 この時の後北条方の軍勢は2万といわれるが、これは明らかに誇称である。国府台近郊にまで攻め寄せたのは5千前後であったものと推測される。それにしても、足利・里見方の5倍という大軍である。7日に火蓋が切られた決戦の際も、この兵力の差が大きくものをいった。兵力の差を払拭しようと考えたのか、無謀にも義明は最前線にまで出て後北条方を牽制しようとする。 しかし、後北条方の弓の名手・横井神助の放った矢に胸板を射られ、呆気なく討死を遂げた。総大将の討死を知った足利・里見方の将兵の中には、早々と戦場を離脱する者もみられた。結局、氏綱は地滑り的な勝利を収めた。一方、義明の討死のために小弓御所は瓦解し、安房に逃げ帰った里見氏も鳴りを潜めることになる。
|
||||||