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(千葉県市川市)里見公園新聞  41号 42号 43号 44号 45号
里見公園新聞

第41号 2008年3月23日(日) 発行:木ノ内博道

■市川が釣り宿のはじまり
 スカッシュ仲間の佐々木さんという人が、釣り宿の発祥は市川だと教えてくれた。釣り宿などどこが発祥なのか気にもとめていなかったが、北村節信(1783〜1856)の『嬉遊笑覧』に紹介されているのだという。『嬉遊笑覧』はさまざまな随筆を集めたもので、現在でも岩波文庫で入手できる。原本は『江戸釣魚大全』(長辻象平著)。佐々木さんからコピーをいただいたので、それを紹介する。
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 <また川釣りは利根川(現在の江戸川)中川などに出て、鱸(すずき)、鯉、めなだ、さい、まるたなどを釣る。中川にては黒鯛、せいご、秋はハゼをも釣る。中川は釣(魚)のそだち利根(江戸川)より遅きにや、すべて少なし。5月より8、9月までなり。
 今、田舟のごとき小舟を多く設けて釣人に借する処多し。そのはじめは鴻台の麓を根本といふ。ここに百姓権次といふ者、常に彼の小舟に乗りて網を打ち、草をふせ魚をとりて業となす。
 この者語りけるは市川の宿に市のたつ日あり。その市に江戸よりいくものに衣類の古手を商う佐右衛門と云ひしもの魚つることを好みけるが、市川の宿に泊り、市の初まるまでこの河端に繋げる船を借りて試みに釣りを垂れしに思いの外に魚を得て、後にその市に行くたびごとに釣りをするに、舟は物を運ぶにさし合ひて釣りを止むることの本意なさに、このわたりに賃を取りて船かさん者あるやと問ひかければ、さる処もなけれども、もし彼の処にて頼みなば借すこともあらんとて我らが家を教へこしたり。ひたすらたのみし故、舟を借し、やどらせもしつ、その頃は魚よく釣れて、もて帰る途にて問ひ尋ね、聞き伝へてそれより釣人多く来たりぬ。
 かくて処々河ばたに小舟かす家は多く出来たり。釣宿といふものこの権次ぞ始めなりける。今に健なる老父なり。その始め、天明の末より寛政の初めごろの事なり。その頃釣りのしかけ糸ふとく、沈(錘か?)重く針も大きく今よりみればふつつかなるやうなるに、大魚多く釣れたりといへる。今は、巧者多けれども、釣人多くなりて取りつけせば、得ものおのずから少なし。>
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 市川という地名の起こりは川に市がたったからだという説があるが、裏づけられてはいない。国府の置かれたところに市川という地名が多いことは分かっている。
この資料では市川に市がたったとあるが、地名の由来ということではないのだろう。市川根本については本紙33号で触れた。京成国府台の駅のあたりのことである。昔は市川という地名もこの辺に限られていたとなにかの本で読んだ記憶がある。


■羅漢の井の工事が終了
 2月中旬から工事をしていた羅漢の井。江戸情緒の感じられる雰囲気にリニューアルし、ここから公園にあがれるようになった。

里見公園新聞

第42号 2008年4月20日(日) 発行:木ノ内博道

■不定期刊になってしまった
 毎週発行してきた里見公園新聞だが、情熱が枯れてきたせいか、最近は不定期の色が濃くなってきてしまった。
 前号で「羅漢の井」がリニューアルしたことをお知らせしたが、その後花見の喧騒があって、やっとまた落ち着きを見せたところ。周辺の変わりようをお伝えしておくと、江戸川の岸にずいぶん高いビルが建ち始めた。京成国府台周辺だが、かなり景観が変わってきた。それから、JR市川駅南口の再開発ビルのオープンが迫ってきた。今年の10月に一部オープンし、最終的に来年4月には全体がオープンする。鉄筋不足で強度に不安があるとして大騒ぎしたこともどんどん昔話になっていくのだろう。テレビのニュースにまでなった。
 市川名物の餃子屋「ひさご」が店を閉めた。戦争で焼けなかった古いビルがいよいよ壊されるようだ。


■「小説 太田道灌」を読んだ
 童門冬二の『小説 太田道灌』(PHP文庫)を読んだ。ひょっとして太田道灌が築いたと言われる里見城のことが分かるかも知れない、という思いがあったが、太田道灌については資料が少ないのか、史実的な部分が極端に少ない。
 房総半島の雲行きが怪しくなってきたなかで、上杉顕定は太田資長(道灌)に「まず、国府台に城を築き孝胤(千葉)を討て」(150ページ)とあるだけ。これではさびしい。
 しかし、幾つか分かったことがある。童門はこの小説の巻頭に「序にかえて」という一文を載せている。そこで、室町時代末期はなんとなく敬遠しがちだとある。理由を5つあげていて@事件全体の流れがスッキリしない A対立はあるが善玉悪玉がはっきりしない B登場人物が多すぎる C登場人物があっちについたりこっちについたりする D対立が長期化し、結末がモヤモヤと不透明――とある。感じていたことなのでなるほどと思った。
 もう一つ、巻頭に「本書に出てくる主な地名」として地図が載っている。砦または城として国府台もでてくるが、川が大井川と書かれ、カッコ書きで江戸川とある。室町末期には大井川と呼ばれていたらしい。
 こんな話もある(198ページ)。資長(道灌)が石神井城跡を訪ねたとき、三宝寺池のそばに「殿塚」「姫塚」というのがあった。いわれについて「落城の日、豊島泰経が家宝の黄金づくりの鞍を白い馬において、それにまたがったまま三宝寺池に飛び込んだのだそうです。それを知った娘の照姫も父のあとを追って入水したのだそうです。戦が終わった後、近所の人達が二人の遺体を引き上げて葬ったのが、殿塚と姫塚だそうです」。
 里見公園の夜泣き石、じゅんさい池公園そばの姫塚も同様の話で、各地の古戦場に似たような話があるのかも知れない。民衆はこうした話が好きで、誰が語りだしたというのでなく、語り継がれていくのだろう。

里見公園新聞

第43号 2008年4月27日(日) 発行:木ノ内博道

■三宝寺池の黄金の鞍の話
 前号で、資長(道灌)が石神井城跡を訪ねたとき、「殿塚」「姫塚」と呼ばれる塚がつくられていて、それには悲しい伝説があったことを紹介した。里見公園、じゅんさい池公園にも同様の話があるが、さらに似た話がこの小説では語られる。
 豊島泰経の乗った白い馬ごと三宝寺池に沈んだ黄金の鞍を地域の人たちが何度も引き上げようとするが、もぐって鞍をとろうとすると金の鞍がまぶしくてもぐることができない。それなら、無理をしないで、このまま池に沈めておいた方がいい、ということになった、と。
 里見公園下の鐘ヶ淵伝説と似ている。鐘掛けの松にかけた鐘が沈んで、今でもそのままになっているという伝説。
 著者童門冬二は、資長の思いとしてこんなことを書きつけている。
――民衆というのは、血腥い事件を美しく、詩的に飾り立てて、後の世に語り次いでいくのが好きらしい。それが戦にはじき飛ばされ、家を焼かれ、田を荒らされた民衆の鎮魂歌かも知れない。そういう意味では民衆の方が精神性が高い。民衆の方がよほど精神性が高いというのは、民衆の心くばりが決して勝者に対してはおこなわれず、敗れた者に対してあたたかかったからである。
 これは、国府台に住む人たちにも言える言葉だろう。

■土手でタンポポの雑種を見つけた
 唐突だが、この辺のタンポポはほぼセイヨウタンポポでカントウタンポポを見ることはない。特に江戸川の土手はセイヨウタンポポばかり。と思っていたら、白味がかったタンポポの株を見つけた。なんとカントウタンポポとシロバナタンポポの雑種らしい。二つの株を見つけたので、ひと株を我が家に持ち帰った。
 雑種のタンポポを見るのは初めて。実は国府台のある一角にはカントウタンポポが群生していて、そのまた一角にシロバナタンポポが小さな規模で群生している。2年ほど観察しているのだが、この間にもセイヨウタンポポが侵食していて、カントウタンポポを見ることはできなくなってしまうのではないかと思っている。

■国府台の夕日とフジテレビ
 昨年の秋には、国府台の江戸川端から夕日を何度も見た。春の盛りの今になって、秋の見事な夕日を何度も思いだす。夕日のなかに富士山が浮き上がる。
 富士からフジ・サンケイグループを思いだす。創業者の鹿内信隆氏、それから鹿内ジュニアにもお会いしたことがある。その頃鹿内ジュニアはグループ再編の仕事をしていて、サンケイ出版を扶桑社と社名変更した。その時、私は、宗教をバックボーンとする気だなと思った。鹿内信隆氏のお父さんは薬を売って全国を歩いていたと聞いたことがある。しかしそれは仮の姿で、扶桑信仰(富士山信仰)の布教活動をしていたという説がある。信隆氏はテレビ会社を作るとき、フジテレビと命名した。その後、箱根に彫刻の森美術館を作った。彫刻の森美術館の一角からは富士山が一望できる。詳しくは言えないが、そこは鹿内家の聖地である。ジュニアは社名変更した扶桑社をグループのシンクタンクにしようとしていた。
 ところが信隆氏、ジュニアとも相次いでこの世を去った。富士山信仰を理念に据えた王国作りは頓挫した。

里見公園新聞

第44号 2008年11月16日 発行 里見公園新聞舎

 しばらくお休みしていた「里見公園新聞」を復活します。数少ない読者の皆さま、今後ともよろしくお願いします。

■総寧寺・考(その1)
 里見公園あたりは、江戸時代には総寧寺の境内だった。300人も僧侶のいる、大きな寺だった。『江戸名所図会』にも紹介されているが、境内は現在の国府台全域をほぼ占めている。
この総寧寺、明治に入って境内の大半を政府によって買い上げられてしまった。そして、一時は住職もいない荒れ寺となった。夏目漱石が訪れて漢詩を作っている(22号参照)。しかし、由緒ある寺であるし、どうも徳川幕府と関係が深すぎる。徳川幕府とだけでなく、常に時の権力と近い関係にあった。それだけ影響力をもった寺だったと言うことだろう。単に廃仏毀釈というのでなく、明治政府に弾圧されるだけの理由があったのではないか。その辺を解き明かせたら、と思う。

1)建立
 話は遡ってしまうが、総寧寺建立のいきさつから見ておこう。
総寧寺は1383年(永徳3年)に近江守護の佐々木氏頼(六角氏頼)が桃通幻寂霊を招聘して近江国(滋賀県)の坂田郡寺倉に建立したのが始まり。
 六角氏頼は南北朝時代の武士で六角時信の子。六角家は鎌倉幕府滅亡とともに没落。父、時信が出家し、氏頼は幼くして家督を継承して当主になる。足利政権で近江の守護職をめぐり佐々木道誉と争うが道誉の娘を妻に娶り佐々木氏嫡流の立場をとった。足利家内紛後、一時出家するが後に政界復帰し近江守護に復した人物。
 また、招聘された通幻寂霊は南北朝時代の曹洞宗の僧で、俗姓は藤原氏。総持寺5世。優れた僧を輩出して、最盛期には曹洞宗全寺院数1600余寺に対して通幻派9000寺という宗門最大の門流を育てた。
興味深いのは、この通幻寂霊は民話「子育て幽霊」の幽霊によって育てられた赤ん坊の後身だという伝承のあること。
 先を急ぐ書き物でもないので、「子育て幽霊」の話を紹介しよう。
2)「子育て幽霊」の話
《ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女性が「飴をください」と一文銭を差し出した。主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売ってやった。翌晩、また女がやってきて「飴をください」と一文銭を差し出す。主人はまた飴を売ってやるが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた。その翌晩も翌翌晩も同じように女は飴を買いに来たが、とうとう7日目の晩に「もうお金がないのです。どうかこれで飴を売ってもらえませんか」と女物の羽織を差し出した。主人は女を気の毒に思っていたので、羽織と引き換えに飴を渡してやった。翌日、女が置いていった羽織を店先に干しておくと、通りがかりのお大尽が店に入ってきて「この羽織は、先日亡くなった自分の娘の棺おけに入れてやったものだ。これをどこで手に入れたのか」と聞くので、驚いた主人は女が飴を買いに来たいきさつを話した。お大尽も大いに驚き主人ともども娘を葬った墓地へ行くと、新しい土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こしてみると、娘の亡骸が生まれたばかりの男の赤ん坊を抱いており、手には飴屋が売ってやった飴が握られていた。お大尽は「臨月に亡くなった娘をお腹の子どもも死んでしまったと思い込んでそのまま葬ったのだったが、娘は死骸のまま出産し子どもを育てるために幽霊となって飴を買いに来たのだろう」と言った。赤ん坊を墓穴から救い出し、「この子どもはお前のかわりに必ず立派に育てるからな」と話しかけると、それまで天を仰いでいた亡骸は頷くように頭をがっくりと落とした。この子どもは後に菩提寺に引き取られて高徳の名僧になったという。》
赤ん坊の後身が名僧になったという話は、通幻寂霊だけではない。「子育て幽霊」の話は、親の恩を説くものとして多くの僧侶が説教の題材に使ったようだ。

――次回は、紆余曲折を経て国府台に移転されたこと、徳川幕府との関係を探ってみたい。乞う、ご期待。

里見公園新聞

第45号 2008年11月23日 発行 里見公園新聞舎


下馬石の写真
■総寧寺の下馬石
 総寧寺の入り口に下馬石がある。以前は表通りに面した大田青果店のそばにあったという。江戸時代にはもっと遠くにあったものだろう。
 ある時、友人に「総寧寺には下馬石があるんだ。格式が高かったようだよ」と話したところ、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮には「下馬四つ角」という地名、バス停がある。神社や寺に詣でる場合、武士は当然馬から下りる。権力の象徴というより単なる目印程度なのではないかな、と話す。そんなものかも知れない。

■11月のダイヤモンドフジ
 11月初旬の夕方(たぶん6日だったと思う)、自転車で江戸川端を走っていると、富士山の火口のわずか右側に太陽が沈もうとしている。写真を撮っていたおじさんが「ダイヤモンドフジはここからだと明日見られるね」と言っていた。これまでダイヤモンドフジは2月初旬と梅雨時と聞いていたので意外だった。
 おじさんによると、ダイヤモンドフジは11月と2月に見られるそうだ。半年に一度と思っていたが、それは富士山から真東のところ。春分の日と秋分の日にダイヤモンドフジになる地域でのこと。おじさんによると、一日でちょうど富士山の火口部分の幅くらいで太陽は移動して見られるそうだ。江戸川端で移動しながらダイヤモンドフジを見ようとするなら、1日で500メートルくらい移動すればいい、とか。
 耳学問というのは分かりやすくていい。

■総寧寺・考(その2)
2)焼失と移転
 近江国(滋賀県)の総寧寺は1530年、戦乱によって焼失。住持は遠江国掛川に退避して常安寺として再建。永禄年間にまたも戦乱で焼失。住持らは常陸の国に落ちのびる。
 1575年(天正3年)北条氏政によって関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)に移転。関宿城の簗田氏に対する牽制策とされる。常安寺は旧称総寧寺に復すが、その時期は不明。北条氏から20貫、北条氏滅亡後は新領主・徳川氏から改めて20石が与えられる。
 この辺から徳川家との関係が深くなっていく。1617年(元和3年)徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。さらに1663年(寛文3年)徳川家綱によって現在地(国府台城跡地)に移転する。表向きは江戸川の洪水を避けるためという。2年後に寺領として128石5斗が与えられ、曹洞宗関東僧録司となる。
 1850年(嘉永3年頃)焼失、1862年(文久2年)再興されている。そして明治維新には多くの寺領が新政府によって買い上げられる。
3)移転の意味
 昔の人にとって寺や神社は祈りの場所である以上に結界を作るために建てられたのではないか、と思う。関宿は利根川と江戸川の分かれるところである。川は龍にたとえられる。龍の動きを封じるために関宿に移転したのだと思うが、これについてはもう少し調べてからにしたい。
 国府台移転も、徳川幕府が房総からの敵の侵入を防ぐための軍事的な拠点として広大な土地を与えたことと同時に、結界としても意味をもっていたはずだ。国府台は江戸城から見て東に当たる。「江戸は中国の五行思想を取り入れた四神相応の地」であり「四神とは東西南北を司る霊獣のこと」。「東は青龍が治め、河川が龍の象徴となる」と『大江戸魔法陣』(加門七海著)にある。
 ところで、徳川幕府の年表と付き合わせていたら、国府台移転の翌年(1664年)には、家綱が1万石以上の大名に対して朱印状を交付している。その翌年には公家や寺社に朱印状を出している。領地を認める朱印状発行直前の総寧寺の移転、その規模は大名格。今で言えばインサイダー取引のようなにおいがする。総寧寺は朱印状によって128石5斗を保証された。なにもないとは思えない。
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