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(千葉県市川市)里見公園新聞  36号 37号 38号 39号 40号
里見公園新聞

里見公園新聞 第36号 2008年1月20日(日) 発行:木ノ内博道


新しく取り付けられた辻切り
■辻切りの行事について
 国府台病院のところから公園に入る道際に、藁で作った蛇がある。その蛇が新しくなった。そこで、今では珍しい行事となった辻切りについて調べてみた。市川市教育委員会の発行した『国府台に伝わる辻切りと獅子舞について』によると、辻切りの由来についてこうある。
<戦前、国府台から国分にかけての地域では部落の四隅の辻々の木にワラで作った大蛇をかけ、悪霊の侵入を防ごうとした「辻切り」の行事が行われていた。
 しかし、世相の移り変わりとともに、現在ではほぼ昔の姿のまま伝えられていると思われるものは、国府台の「辻切り」だけになってしまった。
 国府台に伝わる「辻切り」は、毎年1月17日に行われる。かっては朝早くから部落の人たちが当番宿の家に集まって、大蛇を作ったが、現在では天満宮境内で行われるようになった。不思議と、この日には雨が降ったことがないという。
 各自の持ち寄ったワラで、頭(かしら)を作る人、胴を作る人に分かれて作る。現在では頭を作れる人が少なくなっている。(太田勝雄氏が専門に作っている)胴は境内のケヤキの枝にナワをかけ、胴の一端を結びつけて引上げながら掛け声も勇ましく3ツに分けたワラをねじりながら、2mほどの長さに作りあげる。
 頭、胴ともに4体を作り、頭はくちの中に2枚の舌をとりつけ、胴に結びつける。
 目は半紙にワラ灰を包み、麻で結び墨で眼球をかきこむ。
 目の上にビワの葉を挿すが、これは耳であるともいい、また、目を保護するためにつけるのだともいう(半紙が雨風で破れやすいため)。
 首には長さ15cm、巾10cmほどの将棋の駒形に作った木札に塞座三神を、裏には村内安全と書いて、幣束とともに麻で結んで下げる。
 できあがると神前に並べ「おみき」を吹きかけて魂入れをしたのち、四辻の木の上に頭を外に向けてからませる。こうして蛇は翌年まで風雨にさらされながら、村内安全のために目を光らせるのである。
 この行事は、もともと宮廷に行われていた「道餐祭(ミチアエノマツリ)」(6月と12月に皇居の四隅に疫神を誘い、食物を与えて追い払う祭り)が、次第に形をかえて民間に広がったものである。人畜に害を与える悪霊や悪疫の最もはいりやすいと考えられていた部落の四隅に大蛇をおいて、外から侵入してくる目に見えない悪霊を、蛇神によって追い払おうという呪術である。
 残念なことに、この行事がいつの時代からこの地域で行われるようになったのかは不明である。>
 取り付けられる場所は、東が国府台5丁目16の南角、西が国府台3丁目13、南が国府台3丁目1−1、北が国府台3丁目11三叉路角。昔の字明戸、乞食前、西桜陣の一部総寧寺領の地域である。

里見公園新聞

里見公園新聞 第37号 2008年1月27日(日) 発行:木ノ内博道

■続・国府台以外の辻切り
 前号で国府台の辻切りを紹介したが、近隣でも似たような行事が行われている。辻切りは、たぶん、この地域一体で行われていた行事なのだろう。近くの辻切りを紹介する。
根本国府神社(市川4丁目4番)の辻切りでは1体だけが作られる。『国府台に伝わる辻切りと獅子舞について』によれば、この蛇は、頭部のワラの量は少なく、舌は1枚でたいらなしゃもじ形。目以外に目と同じ大きさのワラ灰をくるんだ半紙を頭部につけ、大蛇の鼻としている、という。胴を編むときはワラの穂先を外側に多く出して荒々しく見せる。古老は「根本の蛇は雄で、国府台の蛇は雌である」といっているが、国府台では否定しているとか。
 かっては4体を作り、部落の四隅の木にかけたが、現在は木札と幣束のみを四隅の木に結びつける。
 また、国府台の北東、旧字堀之内の地域にも名残がある。蛇は作らないが1月20日に将棋駒形の木札と幣束を部落の四隅に竹で結んで立てる。大蛇を作ることは、戦後数年続けたが止めてしまったという。当時を伝える話では、4メートルほどの長さの大蛇を1体作り、国分寺から受けてきた紙のお札を口の中の舌にはさみ、当番宿の玄関先に臼を裏返してそのうえにとぐろを巻くように置き、お神酒をあげる。その後大蛇を担いで松戸との境の枝を横にはわせた古木に、頭を東に向け、口を大きくあけて置く。耳はやはりビワの葉で頭と胴を結びつけたところに横に向けて挿し、目はワラ灰ではなく当番宿の線香の灰を使った。また、木札は首から下げずに、竹につけて四隅に立てたという。

■全国のワラの蛇
 ワラで蛇を作る行事は全国にある。たとえば大津市三井寺町の長等神社では長さ約30メートルの大蛇が作られる。1年の健康を願って、尾を踏んで厄を落とす。また奈良県田原本町鍵の八坂神社ではワラで編んだ10〜18メートルの大蛇をかかげて集落を練り歩き五穀豊穣を願う。こちらは国指定無形民俗文化財に指定されている。
 川口市の安行では毎年5月24日に10メートルの蛇造りが行われる。


君津市大坂鴨畑に伝わる武者人形の道切り

■一般には「道切り」
 五穀豊穣や健康を祈願するためにワラで蛇を作る行事は各地にあるが、国府台の辻切りは部落に災厄や疫病が入ってこないようにするためのもの。
 昔の人たちは自分の部落に災いが入ってこないように部落の出入り口で祈祷やまじないをした。これを「道切り」という。
千葉県にも多くの地域に道切りの行事が残っている。ムカデや蛇、龍、蟹の殻や巨大なわらじ、あるいは木札をかけるところもあるが、多いのはやはり太綱だろう。それらを村境の木にかける。道を塞ぐように綱をかけるものもある。ワラで武者人形を作るものもある。

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里見公園新聞 第38号 2008年2月3日(日) 発行:木ノ内博道


公園内にある北原白秋の自宅
■紫烟草舎のこと
 里見公園の江戸川寄り、羅漢の井の近くに北原白秋の自宅が移設されてある。日ごろは閉まっているが、花見の頃には開けられ、なかを見学することができる。
 しかし、北原白秋は“里見公園”に直接ゆかりがあったわけではない。真間に1ヶ月半ほど居住したことがあるだけ。その後小岩に居を移し、そのときの住居が里見公園に移設されているのだ。
持って行き所がなくてたまたま里見公園にあるという感じ。そう思うと、なんだか寂しいものがある。だんだん老朽化してきて、このあとどうするのだろうか、と他人事ながら心配になる。
 出生地の福岡県柳川市には立派な記念館があるという。白秋に関連するグッズも販売している。そことタイアップして、もう少し積極的に売り出してみてはどうだろう。
 市川市文学プラザに、こんな解説のパネルがあったので紹介しておこう。
――北原白秋 1912年(明治45)、人妻と恋愛事件を起こし、神奈川県三崎、小笠原、父島などを転々とした白秋は、やがて江口章子(1888−1946)と出会い、1916年(大正5)5月から2ヶ月ほど、「万葉集」ゆかりの真間亀井院に過ごします。
 そして、そこでの生活をもとに、「真間の閑居の記」の序文をもつ「葛飾閑吟集」「転廻三鈔」「雀の卵」の三部からなる歌集『雀の卵』(1921・大正10)をはじめ、「かつしか小品」「雀の生活」「かつしか文章」などのずい筆が書かれました。
 当時の真間周辺は、1912年(明治45年)
3月から着手された耕地整理の真っ最中で、亀井院の裏山一帯が埋め立て用の土砂採取のため、切りくずされていました。土ぼこりとそう音に悩まされた白秋は、真間をはなれ、江戸川対岸の小岩にうつり、「紫烟草舎」を構えました。「紫烟草舎」は現在、国府台里見公園に移築保存されています。
 白秋の「かつしか」は、うつりかわる大正期の市川を描いているといえるでしょう。
 1916年(大正5)5−6月、市川真間在住
※         ※
 姦通罪のあった時代である。白秋は告発され、社会の糾弾を浴びる。多くの友人が離れていく。そうした事件が一段落して、結婚して真間に居を構えたわけだ。しかし1ヶ月半で小岩に移り住む。その後1918年(大正7)には神奈川県小田原に移り住み鈴木三重吉の児童文学雑誌『赤い鳥』の創刊に際して童謡部門を担当して、各地の童謡を収集、自らも多くの創作童謡を発表している。その時期、有名な「城ヶ島の雨」も作られている。
真間と小岩に住んでいた2年ほどを白秋研究家は葛飾時代と呼んでいる。経済的にも恵まれず、孤独で苦労の多い時代だったろう。
里見公園に移設された住居のそばには碑があって、白秋の詠んだ歌が紹介されている。雀を題材にしたもので、当時の白秋の孤独な心情が歌われている。

里見公園新聞

里見公園新聞 第39号 2008年2月10日(日) 発行:木ノ内博道


紫烟草舎のわきに碑と解説がある
■続・紫烟草舎のこと
 住居のそばに、白秋自身の筆で「華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ  白秋」という碑がある。
そして碑の解説の看板があって、こう書いてある。
――広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。むら雀の喧騒のうちにも静けさがある。
 逆に幽遠な根源が眼前にはたらき形のない寂静が華麗な穂波や千羽雀となって動いている。
 大正5年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した妙景である。体露金風万物と自己とは一体である。父、白秋は、この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し、赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正10年8月刊行の「雀の卵」で実現した。
 その「葛飾閑吟集」中の1首で手蹟は昭和12年12月月刊の限定100部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。
   1970年 佛誕の日   北原隆太郎

■白秋の葛飾時代を書いた本など
 葛飾時代に白秋の刊行した本、あるいは葛飾時代について触れた本は、下記の通りである。
@『白秋小品』(阿蘭陀書房)小岩の紫烟草舎に移った直後に刊行されたもので、冒頭の「葛飾小品」には真間の手児奈霊堂や亀井院かいわいの生活が綴られている。
A『童心』(春陽堂)のなかの「真間の閑居の記」(「葛飾閑吟集」の序)など小岩の紫烟草舎に移った直後に書かれたものがおさめられている。
B『雀の卵』(アルス)「葛飾閑吟集」「輪廻三鈔」「雀のたまご」の合本歌集。市川への思いが綴られている。
C『雀の生活』(新潮社)紫烟草舎脇に建つ歌碑の歌が載っている。
D『白秋小唄集』(アルス)「秋の鄙歌」「萱野の唄」など紫烟草舎で村の若者たちのために作ったものが載っている。
E『二重虹』絵入り童謡集。巻末に紫烟草舎時代の葛飾のころのことをいろいろ歌ったとある。

■続続・紫烟草舎のこと
 白秋が真間にやってきたのは、万葉ゆかりの地だったからだが、住んでみると寺の太鼓がドンドコドンドコ鳴らされ、近くの川には糞舟が4、5隻は留まっていて糞尿が汲まれている。耕地整理の最中で机の畳もザラザラ。思ったより俗な所で、早々に小岩村三谷(江戸川区小岩8丁目)に移り住んだ。真間の寺への土産歌として、こんなしゃれのめした歌を作っている。「蓮の池埋めてまま食う真間の寺南無妙法蓮華経今の日蓮」。

里見公園新聞

里見公園新聞 第40号 2008年2月17日(日) 発行:木ノ内博道

■日本考古学研究所が国府台にあった
 市川歴史博物館で「市川市の縄文貝塚展」をやっているというので出かけてみた。市川市には貝塚が多く、考古学研究が盛んである。歴史博物館はその代表ともいえる堀之内貝塚の上に建っている。
 学芸員の領塚正浩氏に説明していただいた、というより、団体さん一行に説明しているのをそばで聞いた。説明のなかで興味を引いたのは戦後まもなく外国人の手によって「日本考古学研究所」が国府台に設立されたこと。パネルに“市川は戦後縄文研究の中心地としてスタートした”とある。研究所の場所は現在の和洋女子大のなかにあたる。
 日本考古学研究所は1946年9月に設立され、3年間活動する。所長はオランダ人でカトリックのグロート神父。布教の一環として設けられたというので、それほどの実績はないのではないかと思ったが、どうしてどうして、大きな実績をあげたと言う。
 私は、以前本紙で取り上げたパウラスさんと関係があるのではないかと思って領塚さんに聞いてみたが、どうやら関係はないらしい。
 パウラスさんにしてもこのグロート神父にしろ、戦後まもなく市川で大きな仕事をしていった人だが、領塚さんいわく「日本人は外国人がいい仕事をしていったとしても認めたがらない風潮があります」ということだった。児童養護など社会活動家として活躍し大きな足跡を残したパウラスさんが、市内で評価されていないのはなぜだろうと思っていたので、この話は腑に落ちた。残念な話である。


千代二の句碑・この一角は白秋ワールドだった

■千代二の句碑
 紫烟草舎の近くに石段があって、江戸川に降りられるようになっている。その石段のところに、見落としそうな句碑がある。碑には、
  川明かり 
  およぶ木群の 
  寂けさを 
  安らぎとして 
  ここぞふるさと

 とある。千代二という銘があるのは、白秋の門下、松本千代二のこと。気づかなかったが、この一角にさりげなく市川にちなんだ白秋ワールドが演出されている。誰がどんな発案でここに句碑を置くことになったのだろう。
 それはともかくとして、この句は、千代二が76歳の時に詠んだ句で『夕焼け雲の下』(昭和54年9月)に納められている。昭和35年から国府台に住んでおり、こんな歌もある。「霜の声かわが心音か午前六時総寧禅寺の鐘ひびき来る」。

■今年のダイヤモンド富士
 たしか2月の末あたりに里見公園からダイヤモンド富士が見られるはずだと思って田中酒店のおじいちゃんに会いに行くと、ダイヤモンド富士が見られるのは2月の1〜3日で、残念ながら今年は見られなかった、今年で7年間見ていない、とのこと。
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