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(千葉県市川市)里見公園新聞 36号 37号 38号 39号 40号 |
■一般には「道切り」 五穀豊穣や健康を祈願するためにワラで蛇を作る行事は各地にあるが、国府台の辻切りは部落に災厄や疫病が入ってこないようにするためのもの。 昔の人たちは自分の部落に災いが入ってこないように部落の出入り口で祈祷やまじないをした。これを「道切り」という。 千葉県にも多くの地域に道切りの行事が残っている。ムカデや蛇、龍、蟹の殻や巨大なわらじ、あるいは木札をかけるところもあるが、多いのはやはり太綱だろう。それらを村境の木にかける。道を塞ぐように綱をかけるものもある。ワラで武者人形を作るものもある。 |
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里見公園の江戸川寄り、羅漢の井の近くに北原白秋の自宅が移設されてある。日ごろは閉まっているが、花見の頃には開けられ、なかを見学することができる。 しかし、北原白秋は“里見公園”に直接ゆかりがあったわけではない。真間に1ヶ月半ほど居住したことがあるだけ。その後小岩に居を移し、そのときの住居が里見公園に移設されているのだ。 持って行き所がなくてたまたま里見公園にあるという感じ。そう思うと、なんだか寂しいものがある。だんだん老朽化してきて、このあとどうするのだろうか、と他人事ながら心配になる。 出生地の福岡県柳川市には立派な記念館があるという。白秋に関連するグッズも販売している。そことタイアップして、もう少し積極的に売り出してみてはどうだろう。 市川市文学プラザに、こんな解説のパネルがあったので紹介しておこう。 ――北原白秋 1912年(明治45)、人妻と恋愛事件を起こし、神奈川県三崎、小笠原、父島などを転々とした白秋は、やがて江口章子(1888−1946)と出会い、1916年(大正5)5月から2ヶ月ほど、「万葉集」ゆかりの真間亀井院に過ごします。 そして、そこでの生活をもとに、「真間の閑居の記」の序文をもつ「葛飾閑吟集」「転廻三鈔」「雀の卵」の三部からなる歌集『雀の卵』(1921・大正10)をはじめ、「かつしか小品」「雀の生活」「かつしか文章」などのずい筆が書かれました。 当時の真間周辺は、1912年(明治45年) 3月から着手された耕地整理の真っ最中で、亀井院の裏山一帯が埋め立て用の土砂採取のため、切りくずされていました。土ぼこりとそう音に悩まされた白秋は、真間をはなれ、江戸川対岸の小岩にうつり、「紫烟草舎」を構えました。「紫烟草舎」は現在、国府台里見公園に移築保存されています。 白秋の「かつしか」は、うつりかわる大正期の市川を描いているといえるでしょう。 1916年(大正5)5−6月、市川真間在住
真間と小岩に住んでいた2年ほどを白秋研究家は葛飾時代と呼んでいる。経済的にも恵まれず、孤独で苦労の多い時代だったろう。 里見公園に移設された住居のそばには碑があって、白秋の詠んだ歌が紹介されている。雀を題材にしたもので、当時の白秋の孤独な心情が歌われている。 |
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住居のそばに、白秋自身の筆で「華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ 白秋」という碑がある。 そして碑の解説の看板があって、こう書いてある。 ――広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。むら雀の喧騒のうちにも静けさがある。 逆に幽遠な根源が眼前にはたらき形のない寂静が華麗な穂波や千羽雀となって動いている。 大正5年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した妙景である。体露金風万物と自己とは一体である。父、白秋は、この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し、赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正10年8月刊行の「雀の卵」で実現した。 その「葛飾閑吟集」中の1首で手蹟は昭和12年12月月刊の限定100部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。 1970年 佛誕の日 北原隆太郎 ■白秋の葛飾時代を書いた本など 葛飾時代に白秋の刊行した本、あるいは葛飾時代について触れた本は、下記の通りである。 @『白秋小品』(阿蘭陀書房)小岩の紫烟草舎に移った直後に刊行されたもので、冒頭の「葛飾小品」には真間の手児奈霊堂や亀井院かいわいの生活が綴られている。 A『童心』(春陽堂)のなかの「真間の閑居の記」(「葛飾閑吟集」の序)など小岩の紫烟草舎に移った直後に書かれたものがおさめられている。 B『雀の卵』(アルス)「葛飾閑吟集」「輪廻三鈔」「雀のたまご」の合本歌集。市川への思いが綴られている。 C『雀の生活』(新潮社)紫烟草舎脇に建つ歌碑の歌が載っている。 D『白秋小唄集』(アルス)「秋の鄙歌」「萱野の唄」など紫烟草舎で村の若者たちのために作ったものが載っている。 E『二重虹』絵入り童謡集。巻末に紫烟草舎時代の葛飾のころのことをいろいろ歌ったとある。 ■続続・紫烟草舎のこと 白秋が真間にやってきたのは、万葉ゆかりの地だったからだが、住んでみると寺の太鼓がドンドコドンドコ鳴らされ、近くの川には糞舟が4、5隻は留まっていて糞尿が汲まれている。耕地整理の最中で机の畳もザラザラ。思ったより俗な所で、早々に小岩村三谷(江戸川区小岩8丁目)に移り住んだ。真間の寺への土産歌として、こんなしゃれのめした歌を作っている。「蓮の池埋めてまま食う真間の寺南無妙法蓮華経今の日蓮」。 |
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■千代二の句碑 紫烟草舎の近くに石段があって、江戸川に降りられるようになっている。その石段のところに、見落としそうな句碑がある。碑には、 川明かり およぶ木群の 寂けさを 安らぎとして ここぞふるさと とある。千代二という銘があるのは、白秋の門下、松本千代二のこと。気づかなかったが、この一角にさりげなく市川にちなんだ白秋ワールドが演出されている。誰がどんな発案でここに句碑を置くことになったのだろう。 それはともかくとして、この句は、千代二が76歳の時に詠んだ句で『夕焼け雲の下』(昭和54年9月)に納められている。昭和35年から国府台に住んでおり、こんな歌もある。「霜の声かわが心音か午前六時総寧禅寺の鐘ひびき来る」。 ■今年のダイヤモンド富士 たしか2月の末あたりに里見公園からダイヤモンド富士が見られるはずだと思って田中酒店のおじいちゃんに会いに行くと、ダイヤモンド富士が見られるのは2月の1〜3日で、残念ながら今年は見られなかった、今年で7年間見ていない、とのこと。 |
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