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(千葉県市川市)里見公園新聞  26号 27号 28号 29号 30号
里見公園新聞

里見公園新聞 第26号 2007年11月11日(日) 発行:木ノ内博道


この石垣の上に夜泣石と群亡の塚がある
■再び「夜泣き石」
『市川のむかし話』(市川民話の会 編集・発行)から「夜泣石」の話をご紹介する。
――国府台の里見公園のとなりに、総寧寺というお寺があります。この寺の境内に、『夜泣石』といわれている、長さ60センチ、幅38センチ、厚さ30センチほどの、こけのはえた石があります。この石には、次のような悲しい言い伝えがあります。
 今から400年以上も前の、永禄7年(1564年)に、小田原の北条氏と、安房の里見氏が、この国府台ではげしく戦って、里見氏が負け、戦いが終わったあとのことです。
 12、3歳の美しい娘が、荒れてしまった戦場をさまよっていました。
 この娘は、国府台の戦いで討死した、里見弘次の末娘でした。
 姫は、父が死んだことを知らされても、どうしても、どこかで生きているような気がしてなりません。もし、負傷していたら手当てをしたい。もし討死していたとしたら、供養をしたいと考えると、じっとしていられません。そこで、遠い安房の国から、父をたずねてやってきたのでした。
 戦場にたどり着いてみると、人や馬に踏み荒らされた枯れ草は一面に血でそまり、吹いてくる風もなまぐさいにおいがします。草むらには、とり残された死がいが重なりあって、たくさんのからすが、死がいのうえをとびまわっていました。
 姫は、この景色を見て、胸がつぶれるほどのおそろしさと悲しさでいっぱいでしたが、いっしょうけんめいに父をさがしまわ
りました。
 村人に聞いても知らないといいます。さがしているうちに、父らしい武将をほうむったという小高い丘の上の石をたずねあてることができました。
 けれども、つかれはててしまった姫は、石の上にばったりとたおれてしまいました。
「おとうさま、おとうさま。」
 姫は、石にもたれたまま、父を呼び続けました。けれども、その声もだんだんに細くなり、しまいには聞こえなくなりました。姫は死んでしまっていたのです。
 ところが、その後、不思議なことが起こりました。それは、夜になると、姫のすすり泣く声が、あの石から聞こえてくるようになったのです。
 すすり泣きは、月の明るく照った夜でも、すみを流したようなまっくらな晩でも、石をとりかこんだ杉木立の間から、とぎれとぎれにもれてくるのでした。
 村人は、この石のことを『夜泣石』といって気味悪がり、そばへ寄りつかなくなりました。
 数年たったある日のこと、ひとりの武士がやってきました。武士は、この石に線香をあげ、長いお経をあげていましたが、また、どこへともなく立ち去っていきました。
 その晩から、石のすすり泣く声はばったりと聞こえなくなったということです。
 今でも、里見一族のお墓は、里見公園のまん中にある小高い丘にあります。この『夜泣石』もそこにあったのですが、里見公園を作るときに、現在の場所にうつしたのだそうです。

里見公園新聞

里見公園新聞 第27号 2007年11月18日(日) 発行:木ノ内博道

■不思議な鐘・鐘が淵
 前号で紹介した『市川のむかし話』には「不思議な鐘・鐘が淵」の話が載っている。
※       ※
 市川の国府台に里見公園があります。
 今から440年前の10月のことでした。
 「いくさだ、いくさだ。いくさが始まるぞ」
 「お城をな、3日で作るんだとよ。このあたりの男はな、全部かりだされるぞ」
 「こりゃあ、たいへんなことだ」
 市川の人びとは大さわぎです。
 何のいくさでしょう。
 その頃、下総国、上総国(千葉県)に勢力をひろげていた足利義明(足利尊氏から4代目にあたる)という人がいました。小弓御所といわれていたのですが、その人の主な武将に安房の里見氏がいました。
 一方、小田原の北条氏綱(北条早雲のむすこ)は、関東地方一円を自分の勢力下におさめたいと思っており、まずそのねらいを、下総国(千葉県北部)に向け、攻撃の機会をうかがっていました。
 そして、天文7年(1538)10月4日、ついに足利義明とたたかうために、軍勢をひきつれて、小田原城を出発したのでした。
 さあたいへんです。北条氏が江戸を通って市川にやってくるまでの間に、何とか守りを固めなければなりません。けれども、3日でお城ができるわけはありません。そこで住人は、江戸に近い国府台にごうを掘り、土るいを積むなどして、敵軍にそなえて働きました。
 戦いの合図を知らせるための鐘が、江戸川につきだした松の枝につるされました。
 準備はできました。10月7日の明け方です。
 里見氏を中心とした足利義明の軍勢約1万は、国府台に陣をしいて、敵のくるのを待ちかまえました。
 「北条軍は、きっと江戸からまっすぐに、国府台にやってくるぞ」
 「いま、松戸の方からくるかもしれません」
 「そんなことはあるまい。敵は小田原からやってくるのだ。わざわざまわり道はすまい」
 「そうかもしれません。しかし」
 「では、念のために松戸方面へ、200名ばかり配置しておけ」
 「はい、かしこまりました」
 そのころ、北条氏は小田原から江戸へ着き、江戸城で軍評会議を開いていました。
 「敵は国府台に陣をしいたということです」
 「そうか、では、松戸方面に1000名ばかりをむけ、裏手からせめ寄せるとしよう。相手がそちらに気をとられているすきに、本隊は国府台からせめこみ、はさみ打ちとしよう」
 「それがよいと思われます」
 やがて北条氏の先発隊は川を渡り終え、江戸に到着しました。
 北条氏の中心の軍勢は、江戸川べりまでやってきました。
 「渡れそうな浅い所はあるかな」
 「あれ、あそこに白い鳥がおりて群れております」
 「ああ、こうのとりだ、あの鳥がいるからには、あそこが浅瀬だぞ」
 「それ渡れ」
 北条氏の大軍は、江戸川をザバザバザバーッと、渡りはじめました。
 里見方では、その前に思いがけない松戸方面のしゅうげきを受け、死にものぐるいの戦いをしていました。なにしろ、200に対して、その5倍の軍勢がおしよせたのですからかないません。里見氏の本隊があわてて援助にまわったところに、北条軍の本隊が江戸川を渡って国府台にせめこんできました。北条氏のおもわく通り、はさみ打ちになってしまったのです。
 矢は、ヒューヒューととびかい、まるで、夏の野にトンボの大群が飛んでいるようです。また、矢が地に落ちるようすは、雨にまじったあられのようであったそうです。
 「ワーッ」「ワーッ」
 と、あちこちでときの声があがり、また傷ついてたおれる者など、台地の上は、ものすごい戦場となってしまいました。
 千葉側の足利義明の軍勢には戦死者が多く、だんだん負けいくさになってきました。
 「ええい、負けてなるものか、こうなったら氏綱の本陣にせめこむまでだ」
 足利義明のむすこは、決意を定め、170騎を引き連れて、北条軍の本陣に突入しました。ところが、あと一息というところで打ちとられ、首を切られてしまいました。
 これを知った義明は、
 「むすこのとむらい合戦だ」
 と、一人で北条軍にのりこみ、死にものぐるいで戦いました。このたった一人の働きで、北条軍の方で殺された者が数十人もいたということですから、その働きはたいへんなものだったのですね。そのとき、おかの上から弓でねらっていた者がいました。矢は、ピューッととんできて、義明をいぬいたのでした。
 「うーん、残念」
 馬からころげ落ちた義明は、待ちかまえていた武士におさえこまれて、とうとう首を切り落とされてしまいました。
 里見氏は、そのとき北条勢の一部を相手に戦っていました。けれども、次々とはいってくる知らせで、味方が負けているのを知って、退却をしました。
 この戦いで負けた、小弓御所の女房たちは、自殺したり、尼さんになったりしたそうです。
 勝ちほこった北条方の武士たちは、国府台の高台までやってきました。
 「おい、あそこに鐘がつるしてあるぞ」
 これこそ、里見方が戦いの合図に使うために、船橋の寺から持ってきてつりさげてあった鐘です。『金銀吹き分けの鐘』といわれたもので、江戸川の川面に反射する太陽の光をうけて、まぶしいほどにかがやいています。
 「きれいな鐘だな。どんな音がするかな」
 「おい、おまえ、ひとつついてみろ」
 いわれたひとりが、力いっぱいついてみました。ところが鐘は音もたてないで、ただ、ゆっさゆっさゆれているだけです。
 「おい、へんだぞ。お前、力がないのか」
 「そんなばかな。おれは力いっぱいついたんだぞ」
 「では、おれがついてみよう。おれは十人力だからな」
 力じまんの一人が進み出て、また力いっぱいついてみました。
 鐘は、やはり音をたてませんでした。
 「おかしいな。これは、何かのたたりかもしれないぞ」
 「そんなことがあるわけない。何かしかけがあるのだろう。おまえ、松の木にのぼって、よく見てみろ」
 「は、はい」
 こんなわけで、みんなは不思議に思って、鐘の下に集まってさわいでいました。
 北条氏の大将氏綱は、このさわぎを聞きつけて、松の根方までやってきました。
 「なにごとだ」
「はい、不思議なことに、この鐘はだれがついても鳴りません」
「そんなばかなことがあるものか。どれ、わしにもつかせてみよ」
 氏綱は撞木のつなに手をかけました。そのときです。
 「こいつ、あやしい女です」
 ひとりの兵が女の人をひきずるように連れてきました。
 「なにやつだ」
 「へえ、この女、大将にお目にかかるまでは何も申しませぬといいますので」
 氏綱の前にひきすえられた女の人は、涙でぬれた顔をあげると、うったえるように氏綱を見上げました。
 このあたりの女の人ではないようです。遠くから旅をしてきたらしく、足もとはほこりでよごれていますが、どことなく上品で、どこかの御殿にいる女の人のようです。
 「わしが氏綱だが、申してみよ」
 女の人は深くおじぎをすると、はらはらと落ちた涙をぬぐい、話し始めました。
 「私は、足利方の若様におつかえしていた、うばの『れんせい』と申します。このたびの戦いで、義明さまをはじめ、若様も打ち死にしたとうかがいました。せめて、若さまのお首だけでもいただきまして、おとむらいをしたいと思ってまいりました。どうぞ、若さまのお首をおわたしくださいませ」
 これを聞いて、氏綱は、
 「さてさて、えらい女だ。この戦場に女の身でやってくるのでさえたいへんなことなのに主人のとむらいをしたいとは、感心なことである。若さまの首は返してやってもよいが。うん、そうだ。その前にこの鐘を鳴らしてみよ。もしこの鐘が鳴ったら、願いをかなえてつかわそう」
 といいました。
 「はい、では」
 れいせいは静かに鐘に近よりました。
 北条方の武士は、「こんな弱い女がついたって、鳴るものか、おれたちのような力の強い者がついたって、鳴らなかった鐘ではないか」と思いながら、みんなで見まもっていました。
 れいせいの弱々しい細い手で撞木はつかれました。すると、鐘がひとゆれゆれたとたんに
 「ゴーン、ウォンウォン」
 美しいひびきが起こり、国府台の森にこだまとなって、鳴りわたりました。
 「おおっ」
 北条の軍勢から一斉におどろきの声があがりました。
 れんせいは、またつきました。
 「ゴーン、ウォンウォン」
 「ゴーン」
 3つ、4つと、いっしんに鐘をついていたれんせいは、
 「あっ」
 とさけびました。
 それと同時に、グワラグワラガラーッと、鐘はものすごい音をたててころがり落ちると、白波をあげて、江戸川の底深く沈んでしまいました。
 あとには、太い松の枝がぽっくりと折れていたそうです。
 今は、この鐘をかけた松はたおれてありません。が、鐘が落ちた所を『鐘が淵』とよんでいます。


■小説『里見義堯』
 PHP文庫の『里見義堯――北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』(小川由秋著)を読んだ。次号で紹介したい。

里見公園新聞

里見公園新聞 第28号 2007年11月25日(日) 発行:木ノ内博道

■11月22日(金)
 早朝、江戸川の堤を自転車で通る。寒波がやってきて、一段と寒くなった。
 昨夜、冷たい北風が吹いたせいか、東京のビルの谷間から富士山が比較的大きくくっきりと見える。だいぶ白くなっている。
江戸川の堤を走っていると、富士山の見える方角が「あれっ」と思うほど変化する。その錯覚は、江戸川が蛇行しているから起こる。
 大きく蛇行するものを人は感じないでいる。しかし見える景色は大きく変わる。まるで時代のようである。

■小説『里見義堯』を読む
 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』はあまりにも有名だが、いわば馬琴の世界を展開したに過ぎない。里見氏に関する史実に即した小説はないものかと思っていた。歴史書を読めばいいのだが、小説のいいところは生き生きと描いてくれるところにある。
 小川由秋の『里見義堯――北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』(PHP文庫)を書店で目にしたので、早速購入し一読。戦国時代の房総のおかれた状況を分かりやすく描いてくれている。とくに越後の上杉謙信と組んで北条氏康と戦う第2次国府台戦争など圧巻である。
 里見家の内紛をおさえて第5代当主となった義堯(よしたか)は安房を統一する。幾度となく、関東制覇をもくろむ北条氏に立ち向かう。いわば宿敵だ。国府台の2度の戦いに敗れて、何度も窮地に追い込まれるが、それでも敢然と立ち上がる。仁を重んじ、領民の安穏と繁栄を願う義堯の生き方は、心打つものがある。馬琴が題材にしたのも分かる気がした。
 ぜひ一読をお勧めする。

■再び漱石
 夏目漱石が国府台、里見公園あたりを訪れ、小説にも書いているのは、岡本一平が国府台に居住していたので訪ねて来たのではないかと書いた(本紙20号)。岡本一平が国府台に住んでいたことは意外に知られていないようだ。
 先日、市川図書館の3階にある「市川市文学プラザ」を訪ねて職員にこの話をしたら「漱石と親交のあった正岡子規も何度か市川に来ていますから、子規と一緒に来たのではないか」という人もいます、ということだった。
 市川には文学者や文化人が多く住んでいた(今はどうなのかな)。
 幸田露伴も昭和21年に親子で菅野に移り住んだ。娘の幸田文が書いた随筆「あとひき桜」(『月の塵』講談社刊)に、こんな一文がある。
 「江戸川をわたった向岸は国府台。当時、国府台には兵隊屋敷があったのか、台地の上の松と桜のひろい静寂境で、よく兵隊さんが一列に並んで、ラッパの稽古をさせられていた。それがひどく滑稽で、子供にとってはまったく気に入るものだった。頬をふくらまして、赤くなるほど気張って吹くのだが、ラッパはあわれプオーとひと声、尻すぼみに泣くのみである。上官になにかいわれて、また吹く。またプオー。どうにも笑いをこらえかねる、いとも絶妙な音なのだった」。
 どうやら、菅野に住む前の、子どもの頃のことを書いたものらしい。
 子どもの頃の思い出を綴ったものだが、国府台・里見公園あたりののどかな雰囲気が伝わってくる。

里見公園新聞

里見公園新聞 第29号 2007年12月2日(日) 発行:木ノ内博道


里見甫の墓
■里見甫のこと
 総寧寺に里見甫(はじめ)の墓がある。
里見甫といえば、中国でジャーナリストとして活躍した後、満州国通信社のトップに君臨。さらに上海を根城にアヘンの密売に関わり「阿片王」の名をほしいままにした人物、アヘン売買によって関東軍の財政を裏から支えた男である。岸信介の選挙活動にもこの裏金が使われる。敗戦後はA級戦犯として入獄するが無罪放免される。岸信介の無罪放免にも関わっているのではないかと言われている。巨万の富(現在のお金で30兆円とも)を得ながら、戦後は隠遁生活を送る。そして、この総寧寺に眠る。
 里見甫は里見家の末裔であるらしい。里見氏の戦場跡であり、そばに里見公園もあることから、眠る場所としてふさわしいとも言えるが、どうしてこの地に眠るのかは分からない。大きく立派な墓が並ぶ総寧寺のなかではつましく見える墓である。墓の文字は岸信介の筆によるもの。「里見家之霊位」とのみある。
 墓のそばに碑がある。
  凡俗に堕ちて 凡俗を超え
  名利を追って 名利を絶つ
  流れに従って 波を揚げ
  其の逝く処を知らず

地獄に逝くか極楽に逝くか、そんなことはあずかり知らない、ということだ。
 西木正明の『其の逝く処を知らず』(集英社刊)を読んでみた。里見甫の評伝である。なんとも豪快な生き方であり、児玉誉士男をイメージしたが、同じく里見甫を描いた佐野眞一の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)にある写真を見ると、どちらかといえば細顔、痩身の男だった。
 この2冊を読んで思うのは、満州はアヘンを資金源とする不思議な人工国家だということ。その歴史をみると、イギリスが中国に阿片を持ち込み、アヘン戦争が起こる。中国はこの戦争に負けて、イギリスからアヘンを買うくらいならと、国内で生産することを奨励するようになる。国内生産では間に合わないほど消費され、国民は疲弊していく。そうしたとき、関東軍と組んで里見甫がペルシャアヘンを大量に捌く。
またこの人工国家が、戦後日本を作っていく青写真にもなり、満州で活躍した人たちが戦後の政界で活躍する。
 佐野眞一の『阿片王』にはこうある。
――関東軍の機密費の基本的な資金源となったのはアヘンだった。そして、満州国のメディア統合を図って関東軍の絶大な信頼を勝ちとり、やがて、もう一つのメディアともいうべきアヘンを思うがままに扱って「阿片王」とまで呼ばれることになった里見甫こそ、満州の闇の部分を全身で吸収し、「魔都」上海に阿片という毒の花を咲かせた男だった。(P106)
 本書で、晩年里見甫が言っていたという言葉を紹介している。「人は組織を作るが、組織は人を作らない」(P178)。魔都で巨額の金を動かしながら、たどり着いた感慨なのか。醒めた男だったようだ。

里見公園新聞

里見公園新聞 第30号 2007年12月9日(日) 発行:木ノ内博道

■もみじが見ごろ
 里見公園の奥にもみじ林があり、見ごろを迎えている。色づくのはいつかと何度も見にきたが、意外に遅い。外国には紅葉を愛でる習慣はないようだが、この鮮やかさはなんともいえない。
 いろはもみじの由来を調べてみた。切れ込んだ葉を「いろはにほへと」と数えたからだという。楓は蛙の手に似ているので「かえで」というのだとある。


織部流茶室

■式正織部流茶道
 里見公園の入り口手前に、小さな茅葺屋根の茶室がある。立て札があり、千葉県指定無形文化財になっていると書いてある。
 『いちかわ時の記憶』という小冊子を見ていたら、解説が載っていたので紹介しておこう。ちなみに無形文化財に指定されたのは昭和30年12月15日とのこと。

――安土・桃山時代の茶人・古田織部正重然を始祖とする茶道の流派です。古田織部は信長や秀吉に仕えた武人ですが、千利休に茶の湯を学び、利休高弟七哲の一人に数えられています。徳川2代将軍秀忠の茶道師範を務めるほどの地位を得た茶人であり、また茶室や茶道具にも独創的な創意を凝らした文化人でした。庭園にもその才を発揮され、現在でも桂離宮に織部燈籠の美しい姿を見ることができます。また、陶芸の織部焼は重要文化財に指定されています。
 式正織部流は、利休の「私の茶」に対して、正式な儀礼の「公の茶」であるのが特色です。草庵の茶室ではなく、書院式茶室で点てる格調高いもので、武家的な折り目正しさが感じられます。
 利休の侘茶との違いは、茶道具をじかに畳に置かず盆にのせて扱い、濃茶、薄茶とも呑み回しせず各々の分を点て、袱紗は道具用と勝手用の2種を使い分けるなどがあり、合理的で衛生的な面が見られます。

 いわれはよく分かったが、どうしてこの地にあるのかが分からない。説明としては肝心なことだと思うが。

■再び里見甫について
 小説『其の逝く処を知らず』はきれいに仕上げた小説、という感じがする。
 それに比べて、佐野眞一の『阿片王』は多くの関係者を訪ねて、いわば足で書いたもの。関係者は高齢で、里見甫の実像は鮮明ではないが、人間関係を通して時代と人物が浮き上がってくる。岸信介や佐藤栄作がA級戦犯の後、無罪になって政界に出ていき、児玉誉士夫などがフィクサーとして裏世界に生きていくなか、里見甫はなにもせずに生きていく。「里見なりの戦後の拒否の仕方だった」と佐野は書いている。もう一人の満州建国を裏で策謀した甘粕正彦については「ソ連軍の満州侵攻の報を聞いて“大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん”という辞世の句を残して青酸カリ自殺を遂げた。それは潔い自己処罰というより、ある意味、きわめて身勝手な自己清算だった」とも。
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