目次へ | 写真はクリックで拡大します。 |
(千葉県市川市)里見公園新聞 26号 27号 28号 29号 30号 |
■小説『里見義堯』 PHP文庫の『里見義堯――北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』(小川由秋著)を読んだ。次号で紹介したい。 |
|||||||
早朝、江戸川の堤を自転車で通る。寒波がやってきて、一段と寒くなった。 昨夜、冷たい北風が吹いたせいか、東京のビルの谷間から富士山が比較的大きくくっきりと見える。だいぶ白くなっている。 江戸川の堤を走っていると、富士山の見える方角が「あれっ」と思うほど変化する。その錯覚は、江戸川が蛇行しているから起こる。 大きく蛇行するものを人は感じないでいる。しかし見える景色は大きく変わる。まるで時代のようである。 ■小説『里見義堯』を読む 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』はあまりにも有名だが、いわば馬琴の世界を展開したに過ぎない。里見氏に関する史実に即した小説はないものかと思っていた。歴史書を読めばいいのだが、小説のいいところは生き生きと描いてくれるところにある。 小川由秋の『里見義堯――北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』(PHP文庫)を書店で目にしたので、早速購入し一読。戦国時代の房総のおかれた状況を分かりやすく描いてくれている。とくに越後の上杉謙信と組んで北条氏康と戦う第2次国府台戦争など圧巻である。 里見家の内紛をおさえて第5代当主となった義堯(よしたか)は安房を統一する。幾度となく、関東制覇をもくろむ北条氏に立ち向かう。いわば宿敵だ。国府台の2度の戦いに敗れて、何度も窮地に追い込まれるが、それでも敢然と立ち上がる。仁を重んじ、領民の安穏と繁栄を願う義堯の生き方は、心打つものがある。馬琴が題材にしたのも分かる気がした。 ぜひ一読をお勧めする。 ■再び漱石 夏目漱石が国府台、里見公園あたりを訪れ、小説にも書いているのは、岡本一平が国府台に居住していたので訪ねて来たのではないかと書いた(本紙20号)。岡本一平が国府台に住んでいたことは意外に知られていないようだ。 先日、市川図書館の3階にある「市川市文学プラザ」を訪ねて職員にこの話をしたら「漱石と親交のあった正岡子規も何度か市川に来ていますから、子規と一緒に来たのではないか」という人もいます、ということだった。 市川には文学者や文化人が多く住んでいた(今はどうなのかな)。 幸田露伴も昭和21年に親子で菅野に移り住んだ。娘の幸田文が書いた随筆「あとひき桜」(『月の塵』講談社刊)に、こんな一文がある。 「江戸川をわたった向岸は国府台。当時、国府台には兵隊屋敷があったのか、台地の上の松と桜のひろい静寂境で、よく兵隊さんが一列に並んで、ラッパの稽古をさせられていた。それがひどく滑稽で、子供にとってはまったく気に入るものだった。頬をふくらまして、赤くなるほど気張って吹くのだが、ラッパはあわれプオーとひと声、尻すぼみに泣くのみである。上官になにかいわれて、また吹く。またプオー。どうにも笑いをこらえかねる、いとも絶妙な音なのだった」。 どうやら、菅野に住む前の、子どもの頃のことを書いたものらしい。 子どもの頃の思い出を綴ったものだが、国府台・里見公園あたりののどかな雰囲気が伝わってくる。 |
|||||
総寧寺に里見甫(はじめ)の墓がある。 里見甫といえば、中国でジャーナリストとして活躍した後、満州国通信社のトップに君臨。さらに上海を根城にアヘンの密売に関わり「阿片王」の名をほしいままにした人物、アヘン売買によって関東軍の財政を裏から支えた男である。岸信介の選挙活動にもこの裏金が使われる。敗戦後はA級戦犯として入獄するが無罪放免される。岸信介の無罪放免にも関わっているのではないかと言われている。巨万の富(現在のお金で30兆円とも)を得ながら、戦後は隠遁生活を送る。そして、この総寧寺に眠る。 里見甫は里見家の末裔であるらしい。里見氏の戦場跡であり、そばに里見公園もあることから、眠る場所としてふさわしいとも言えるが、どうしてこの地に眠るのかは分からない。大きく立派な墓が並ぶ総寧寺のなかではつましく見える墓である。墓の文字は岸信介の筆によるもの。「里見家之霊位」とのみある。 墓のそばに碑がある。 凡俗に堕ちて 凡俗を超え 名利を追って 名利を絶つ 流れに従って 波を揚げ 其の逝く処を知らず 地獄に逝くか極楽に逝くか、そんなことはあずかり知らない、ということだ。 西木正明の『其の逝く処を知らず』(集英社刊)を読んでみた。里見甫の評伝である。なんとも豪快な生き方であり、児玉誉士男をイメージしたが、同じく里見甫を描いた佐野眞一の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)にある写真を見ると、どちらかといえば細顔、痩身の男だった。 この2冊を読んで思うのは、満州はアヘンを資金源とする不思議な人工国家だということ。その歴史をみると、イギリスが中国に阿片を持ち込み、アヘン戦争が起こる。中国はこの戦争に負けて、イギリスからアヘンを買うくらいならと、国内で生産することを奨励するようになる。国内生産では間に合わないほど消費され、国民は疲弊していく。そうしたとき、関東軍と組んで里見甫がペルシャアヘンを大量に捌く。 またこの人工国家が、戦後日本を作っていく青写真にもなり、満州で活躍した人たちが戦後の政界で活躍する。 佐野眞一の『阿片王』にはこうある。 ――関東軍の機密費の基本的な資金源となったのはアヘンだった。そして、満州国のメディア統合を図って関東軍の絶大な信頼を勝ちとり、やがて、もう一つのメディアともいうべきアヘンを思うがままに扱って「阿片王」とまで呼ばれることになった里見甫こそ、満州の闇の部分を全身で吸収し、「魔都」上海に阿片という毒の花を咲かせた男だった。(P106) 本書で、晩年里見甫が言っていたという言葉を紹介している。「人は組織を作るが、組織は人を作らない」(P178)。魔都で巨額の金を動かしながら、たどり着いた感慨なのか。醒めた男だったようだ。 |
||||||
■式正織部流茶道 里見公園の入り口手前に、小さな茅葺屋根の茶室がある。立て札があり、千葉県指定無形文化財になっていると書いてある。 『いちかわ時の記憶』という小冊子を見ていたら、解説が載っていたので紹介しておこう。ちなみに無形文化財に指定されたのは昭和30年12月15日とのこと。 ――安土・桃山時代の茶人・古田織部正重然を始祖とする茶道の流派です。古田織部は信長や秀吉に仕えた武人ですが、千利休に茶の湯を学び、利休高弟七哲の一人に数えられています。徳川2代将軍秀忠の茶道師範を務めるほどの地位を得た茶人であり、また茶室や茶道具にも独創的な創意を凝らした文化人でした。庭園にもその才を発揮され、現在でも桂離宮に織部燈籠の美しい姿を見ることができます。また、陶芸の織部焼は重要文化財に指定されています。 式正織部流は、利休の「私の茶」に対して、正式な儀礼の「公の茶」であるのが特色です。草庵の茶室ではなく、書院式茶室で点てる格調高いもので、武家的な折り目正しさが感じられます。 利休の侘茶との違いは、茶道具をじかに畳に置かず盆にのせて扱い、濃茶、薄茶とも呑み回しせず各々の分を点て、袱紗は道具用と勝手用の2種を使い分けるなどがあり、合理的で衛生的な面が見られます。 いわれはよく分かったが、どうしてこの地にあるのかが分からない。説明としては肝心なことだと思うが。 ■再び里見甫について 小説『其の逝く処を知らず』はきれいに仕上げた小説、という感じがする。 それに比べて、佐野眞一の『阿片王』は多くの関係者を訪ねて、いわば足で書いたもの。関係者は高齢で、里見甫の実像は鮮明ではないが、人間関係を通して時代と人物が浮き上がってくる。岸信介や佐藤栄作がA級戦犯の後、無罪になって政界に出ていき、児玉誉士夫などがフィクサーとして裏世界に生きていくなか、里見甫はなにもせずに生きていく。「里見なりの戦後の拒否の仕方だった」と佐野は書いている。もう一人の満州建国を裏で策謀した甘粕正彦については「ソ連軍の満州侵攻の報を聞いて“大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん”という辞世の句を残して青酸カリ自殺を遂げた。それは潔い自己処罰というより、ある意味、きわめて身勝手な自己清算だった」とも。 |
|||||||