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(千葉県市川市)里見公園新聞  21号 22号 23号 24号 25号
里見公園新聞

里見公園新聞 第21号 2007年10月7日(日) 発行:木ノ内博道


水上勉の碑
水上勉と里見公園
 夏目漱石が小説で国府台を取り上げているので、里見公園が舞台となる小説はないかと探していたら、水上勉の推理小説『巣の絵』(新潮ポケット・ライブラリ、発行1962年12月20日)を見つけた。本の紹介に「戦後暗躍した旧軍隊の秘密組織を描いた異色の推理長編!!」とある。市川図書館で借りて一気に読んだ。
 時代は戦後の面影を残した昭和30年代。東京・大塚で幻燈画家が殺され、その犯人と思われる男が里見公園の裏門の近くで死体となって見つかる。市川広小路近くにあった山崎製パンも山品製パンという名前で出てくる。里見公園や国府台一帯の描写は驚くほど細かい。こんな文章もある。「病院前から、国道を横切ると、すぐ公園に向かう並木路である。両側の角に、ミルクホールと中華料理店があり、路はそれから人家が続いた。しばらく行くと、病院の分院の塀につき当たった。そこは三叉路になっていた」。その先は、勾配になって下り坂となり江戸川にでる。血清研究所の裏側で市川真間に抜けられる、と。
 どうしてこんなに詳しいのか、不思議に思って水上勉の年譜をみたら、昭和32年9月から34年10月まで下矢切に居住している。作家として認められる前の不遇時代で、直木賞候補作となった「霧と影」をここで執筆している。執筆のあい間にこの辺を散策したのだろう。
 ちなみに北総鉄道矢切駅前には水上勉の旧居跡の碑がある。裏に平成9年とあるので、碑としてはまだ新しい。
水上勉宅は矢切駅の裏側、県警の射撃場の上の高台に建っていた。旧宅は昭和48年に火災で消失しているという。
 推理小説なのでストーリーの紹介は避けるが、にせ札に関する事件で、戦争中占領地ににせ札をばら撒いて経済かく乱を起こす軍の機密部門のことや、殺人に使われた薬品が以前陸軍の戦車狙撃用の青酸ガスだったりする。
 小説には国府台にあった陸軍司令部などは一切でてこない。が、里見公園を舞台にすることで国府台の陸軍をにおわせる表現をしている。
 それにしても、国府台の陸軍施設ではどんなことが行われていたのだろう。商店街の店が陸軍に商品を納めていたりするので、そうした人から話を聞いてみたい。
 なお、国府台あたりを紹介する手書きのパンフレットを見ていたら、<水上勉の『里見公園殺人事件』の舞台>とある。こうした題名の小説はないから、『巣の絵』のことだろう。

里見公園新聞

里見公園新聞 第22号 2007年10月14日(日) 発行:木ノ内博道


総寧寺正門
江戸幕府と総寧寺
 里見公園に隣接する総寧寺のことが気になっている。
 江戸時代には国府台一帯を地所とし、300人もの僧侶を抱えた寺が、明治に入ると移転を命じられ、わずかな土地しか与えられず、住職もいなくなり、一時は廃寺になる可能性もあった。たんに廃仏毀釈の影響だけとも思えない。なにか徳川幕府の重要な使命を帯びていたので、それが明治政府の弾圧に繋がったのではないか。
 総寧寺は曹洞宗関東僧禄寺の一つだった。江戸時代には寺院間に上下関係をつける本末制度と、宗派ごとに地域一円を支配する寺院を定めて本末制度とは関係なく支配させる僧禄制度があった。
 江戸時代、曹洞宗の信仰上の頂点にあったのは、本末制度の頂点にいた永平寺と総持寺。政治上の頂点には僧禄制度の頂点にいた総寧寺、大中寺、龍穏寺が君臨していた。この間で軋轢があったことは知られている。
 本紙17号でも触れたが、総寧寺は徳川4代将軍家綱のとき関宿から国府台に移ってきた。理由は、関宿は洪水に弱い土地であったからだが、理由はそれだけだろうか。
 徳川幕府は、江戸の要所に大きな寺院を置いて防衛にあたってきた。芝の増上寺は麹町から移転して東海道の防衛にあたってきた。上野の寛永寺(天台宗)も奥州街道と千葉街道の要所にあって東北の勢力からの防衛にあたってきた。寺院を防衛の拠点としてきたのだ。とくに上野の山は江戸城と同じ高さにあり、戦場として有利な立地だった。高台が戦略上の重要な拠点だとすれば、国府台も無視できないだろう。徳川幕府は、江戸城を見下ろせる国府台をとても気にしていた。国府台城をわざわざ壊させたほどだ。そこに同様の防衛機能をもった寺院を設置することは充分納得できる。

夏目漱石 漢詩「鴻台2首」
  
   鴻台冒暁訪禅扉
弧声沈沈断続微
一叩一推人不答
驚鴉撩乱掠門飛

高刹声天無一物
伽藍半破長松鬱
當年遺跡有誰探
蛛網何心床古佛

街かどミュージアム都市づくり懇談会に参加して
 9月29日(土)、市川市主催で国府台地区のまち歩きをするプログラムに参加した。参加者は十数名。国府台駅から里見公園、じゅん菜池公園、西部公民館まで歩いた。
 参加者から「里見公園から江戸川の方に出る石段は下りると急に車道で、しかも最近は交通量が増えているのでとても危険」という声があった。確かにそうだ。公園に危険は似合わない。

里見公園新聞

里見公園新聞 第23号 2007年10月21日(日) 発行:木ノ内博道

『さざなみ情話』に描かれた江戸川
 乙川優三郎の『さざなみ情話』(朝日文庫)を書店で手にしてペラペラめくっていたら、「江戸川に戻った舟は、じきに赤土の台地に老松が枝を広げる、国府台の美しい景色に出合う。対岸は貧しい民家と松の点在する砂地であった」(P170)とある。江戸時代に話題をとった小説で、とすれば国府台の緑地のなかには総寧寺があったことだろう。早速購入して読んでみた。
 残念ながらここ以外に国府台がでてくることはなかったが、主人公は銚子に住み、いつ沈んでもおかしくない高瀬舟を操り、利根川から江戸川を通って江戸に醤油などの物資を運ぶ仕事をしている。舟を歩かせる、という表現が出てくる。冬になると水かさが減り、泥の上を滑らせるようにして物資を運ぶ。
 銚子から利根川を上り、関宿から江戸川に入り、江戸川を下って江戸に物を運ぶ交通として、江戸時代には欠かせない川だったことが分かる。
 主人公は、松戸の平潟河岸の「食売旅籠」、まあ女郎宿だがそこの女性に恋をする。越後の村から女衒に買われて松戸にきた女性だ。通りすがりの関係が、いつか命がけの純愛へと変わっていく。
 川を仕事場とする男を通して、江戸時代の水運がよく描けている。一方、船頭を相手にする川べりの女郎の厳しい現実も伝わってくる。川を中心にした市井の人々の不自由な暮らし。女性は平潟の来迎寺に祈る。平潟という地名、あるいは来迎寺は実際にあるのかと思って地図をみたら、載っていた。
 作者の乙川氏のプロフィールをみたら国府台高校を卒業している。この辺に縁がまったくないわけではないのだ。


間違いやすい「ローゼンハイムガーデン」の看板

バラの見ごろ
 公園のバラが見ごろを迎えている。天気のよい日にはベンチが足りないくらい。でも厳しい残暑が続いたせいか、バラは思ったより咲いていない感じ。木陰になっているところに白い大輪のバラが咲いていた。バラは暑さに弱いらしい。管理している緑の基金の土田さんも「そのぶん長く楽しめるでしょう」とのこと。
 ところで、バラ園の入り口に「ローゼンハイムガーデン」と看板がある。バラ園全体の名称かと思っていたが、そうではなく、ドイツ・ローゼンハイム市から贈られた「マリア・リサ」を記念して植えられたアーチ型のところだけを呼ぶらしい。どうしてそんな紛らわしいことになったのか。土田さんいわく「植え替えたとき、考えずにここに看板を置いてしまったのでしょう」だって。
 最近「バラサンクガーデン」もできたことだし、バラ園全体の統一した名称があって、そうしたコーナーの名称があるべきだろう。
 珍しい品種やローズティが楽しめるバラもある。里見公園の歴史を写真で紹介できるおしゃれな喫茶店があるといいね、と土田さんと話した。

里見公園新聞

里見公園新聞 第24号 2007年10月28日(日) 発行:木ノ内博道

「江戸」と国府台
 最近は江戸検定なるものもできて、江戸時代への関心が高まっている。
 江戸の「と」は「辺り」を意味している。入り江の辺りのこと。他にも「と」のつく言葉は多い。たとえば大和は山の辺り、港は水の辺り、水戸も水のある辺り、松戸は松のある辺り、ということになる。
 ところで江戸が文書に初めて登場するのは1180年(平安末期)「源頼朝が安房、上総、下総の軍勢を国府台に集結させた」と鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』にでてくる(『完本 梅干と日本刀』樋口清之著)のだという。国府台が意外なところにでてきて驚く。
 本書によれば、『吾妻鏡』では頼朝が江戸氏の領地を無事に通過して鎌倉に至ったと書いてあるので、鎌倉幕府成立の前、その後江戸と呼ばれる一帯は江戸氏の領土だったことが分かるという。
 江戸が注目されるのは太田道灌が江戸重長の子孫を駆逐して江戸城を築いてから(1457年・室町時代)。しかし、道灌が上杉氏に殺されると、江戸城は小田原を拠点とする北条氏に乗っ取られる。北条氏支配時代の江戸は、房総の里見氏に対抗するための前線基地となった。
 この時代の国府台を見ておくと、1479年(室町時代)、道灌によって国府台城が築かれる。また1538年(室町時代)には第一次国府台合戦があり、1564年(室町時代)には第二次国府台合戦がある。この2つの戦いについてはこれから何度も触れていくことになる。
 1590年、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼして日本列島の大半を統一する。統一後、秀吉は家康を関東に移封する。家康は北条氏の本拠地だった小田原ではなく江戸を指定する。その後、家康が天下をとることによって江戸は日本の中心になっていく。
これまで、ついぞ『吾妻鏡』など読んだことがなかった。1180年の9月17日にそれらしいことが出てくる。
 「廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六
郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり」。
 現在は下総の国府は残っていないので、国府台としたのだろう。


公園内にある「夜泣き石」

夜泣き石伝説について
 里見公園のなかに夜泣き石があるのを知らない人が多い。東京を展望できる場所の後ろ、小高いところにある。石の前には案内版があるが、人目につくところには案内がでていない。火を使ってはいけないエリアの案内板のなかに「群亡の碑」と書いてあるが、それだけ。
 本紙18号で、じゅん菜池公園の近くにある「姫宮」を紹介したが、「夜泣き石」も国府台合戦にまつわる哀しい話。しかし史実には合わない。地域住民の創作だろう。次号では夜泣き石伝説を取り上げてみたい。

里見公園新聞

里見公園新聞 第25号 2007年11月4日(日) 発行:木ノ内博道

「夜泣き石」伝説とは
 公園の「夜泣き石」の前にある案内板から引用しよう。

伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどりつきました。 未だ12、3才だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついに息たえてしまいました。 ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。 しかし、国府台合戦の記録には、里見弘次は永録7年(1564)の合戦のとき15歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石とともにあったことから、弘次にまつわる伝説として伝えられたものと思われます。
平成4年3月 市川市教育委員会


公園内にある「夜泣き石」

里見諸氏群亡塚

「夜泣き石伝説」
 夜泣き石伝説は各地にある。物言う石の伝説は世界中にある。そういえば人間が石に変えられてしまう話もある。石は人間にとって謎めいたものらしい。
 「夜泣き石」の後ろにまわって石を見ると、3ヶ所ほど上部に傷がある。鋭利な刃物の傷のようで、伝説によっては「あるとき、里見家ゆかりの武士がやってきて太刀で石を切りつけた。それで夜泣き石の泣き声がやんだ」というものもある。
 近隣の年寄りたちは、子どもたちに夜泣き石伝説の話をして、戦争の悲惨さを伝えてきたのだろう。

群亡の碑
 夜泣き石を祀った囲みのなかには3つの碑がある。案内板には、「里見軍の戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政12年(1829年)に至って里見諸氏群亡の塚、里見諸将霊墓が建てられた」とあり、「年代は不詳だが里見弘次公廟が建てられた」とある。この3つの碑が、木立の茂った暗がりに祀られている。
 戦いのあったのは1564年のことだから、慰霊碑が建てられたのは255年後ということになる。室町時代の戦死者を江戸時代後期に慰霊するというのもヘンだが、考えてみれば滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を書き始めて15年後のこと。28年がかりで書いた小説が江戸中で評判になっていた頃である。里見家に思いを寄せる人たちの手によって建立されたのだろう。
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