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(千葉県市川市)里見公園新聞 21号 22号 23号 24号 25号 |
里見公園に隣接する総寧寺のことが気になっている。 江戸時代には国府台一帯を地所とし、300人もの僧侶を抱えた寺が、明治に入ると移転を命じられ、わずかな土地しか与えられず、住職もいなくなり、一時は廃寺になる可能性もあった。たんに廃仏毀釈の影響だけとも思えない。なにか徳川幕府の重要な使命を帯びていたので、それが明治政府の弾圧に繋がったのではないか。 総寧寺は曹洞宗関東僧禄寺の一つだった。江戸時代には寺院間に上下関係をつける本末制度と、宗派ごとに地域一円を支配する寺院を定めて本末制度とは関係なく支配させる僧禄制度があった。 江戸時代、曹洞宗の信仰上の頂点にあったのは、本末制度の頂点にいた永平寺と総持寺。政治上の頂点には僧禄制度の頂点にいた総寧寺、大中寺、龍穏寺が君臨していた。この間で軋轢があったことは知られている。 本紙17号でも触れたが、総寧寺は徳川4代将軍家綱のとき関宿から国府台に移ってきた。理由は、関宿は洪水に弱い土地であったからだが、理由はそれだけだろうか。 徳川幕府は、江戸の要所に大きな寺院を置いて防衛にあたってきた。芝の増上寺は麹町から移転して東海道の防衛にあたってきた。上野の寛永寺(天台宗)も奥州街道と千葉街道の要所にあって東北の勢力からの防衛にあたってきた。寺院を防衛の拠点としてきたのだ。とくに上野の山は江戸城と同じ高さにあり、戦場として有利な立地だった。高台が戦略上の重要な拠点だとすれば、国府台も無視できないだろう。徳川幕府は、江戸城を見下ろせる国府台をとても気にしていた。国府台城をわざわざ壊させたほどだ。そこに同様の防衛機能をもった寺院を設置することは充分納得できる。 ■夏目漱石 漢詩「鴻台2首」 ■街かどミュージアム都市づくり懇談会に参加して 9月29日(土)、市川市主催で国府台地区のまち歩きをするプログラムに参加した。参加者は十数名。国府台駅から里見公園、じゅん菜池公園、西部公民館まで歩いた。 参加者から「里見公園から江戸川の方に出る石段は下りると急に車道で、しかも最近は交通量が増えているのでとても危険」という声があった。確かにそうだ。公園に危険は似合わない。 |
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■バラの見ごろ 公園のバラが見ごろを迎えている。天気のよい日にはベンチが足りないくらい。でも厳しい残暑が続いたせいか、バラは思ったより咲いていない感じ。木陰になっているところに白い大輪のバラが咲いていた。バラは暑さに弱いらしい。管理している緑の基金の土田さんも「そのぶん長く楽しめるでしょう」とのこと。 ところで、バラ園の入り口に「ローゼンハイムガーデン」と看板がある。バラ園全体の名称かと思っていたが、そうではなく、ドイツ・ローゼンハイム市から贈られた「マリア・リサ」を記念して植えられたアーチ型のところだけを呼ぶらしい。どうしてそんな紛らわしいことになったのか。土田さんいわく「植え替えたとき、考えずにここに看板を置いてしまったのでしょう」だって。 最近「バラサンクガーデン」もできたことだし、バラ園全体の統一した名称があって、そうしたコーナーの名称があるべきだろう。 珍しい品種やローズティが楽しめるバラもある。里見公園の歴史を写真で紹介できるおしゃれな喫茶店があるといいね、と土田さんと話した。 |
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■夜泣き石伝説について 里見公園のなかに夜泣き石があるのを知らない人が多い。東京を展望できる場所の後ろ、小高いところにある。石の前には案内版があるが、人目につくところには案内がでていない。火を使ってはいけないエリアの案内板のなかに「群亡の碑」と書いてあるが、それだけ。 本紙18号で、じゅん菜池公園の近くにある「姫宮」を紹介したが、「夜泣き石」も国府台合戦にまつわる哀しい話。しかし史実には合わない。地域住民の創作だろう。次号では夜泣き石伝説を取り上げてみたい。 |
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■「夜泣き石伝説」 夜泣き石伝説は各地にある。物言う石の伝説は世界中にある。そういえば人間が石に変えられてしまう話もある。石は人間にとって謎めいたものらしい。 「夜泣き石」の後ろにまわって石を見ると、3ヶ所ほど上部に傷がある。鋭利な刃物の傷のようで、伝説によっては「あるとき、里見家ゆかりの武士がやってきて太刀で石を切りつけた。それで夜泣き石の泣き声がやんだ」というものもある。 近隣の年寄りたちは、子どもたちに夜泣き石伝説の話をして、戦争の悲惨さを伝えてきたのだろう。 ■群亡の碑 夜泣き石を祀った囲みのなかには3つの碑がある。案内板には、「里見軍の戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政12年(1829年)に至って里見諸氏群亡の塚、里見諸将霊墓が建てられた」とあり、「年代は不詳だが里見弘次公廟が建てられた」とある。この3つの碑が、木立の茂った暗がりに祀られている。 戦いのあったのは1564年のことだから、慰霊碑が建てられたのは255年後ということになる。室町時代の戦死者を江戸時代後期に慰霊するというのもヘンだが、考えてみれば滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を書き始めて15年後のこと。28年がかりで書いた小説が江戸中で評判になっていた頃である。里見家に思いを寄せる人たちの手によって建立されたのだろう。 |
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