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(千葉県市川市)里見公園新聞  11号 12号 13号 14号 15号
里見公園新聞

里見公園新聞 第11号 2007年7月29日(日) 発行:木ノ内博道

 堀江敏幸の『めぐらし屋』という小説を読んでいたら、こんな文章に出会った。
「偶然が偶然を呼び、どうしてこんなことがと思うようなつながりを生んで、坂道を転がったおむすびがころりんと穴に落ちるみたいに、その連鎖の果てのふしぎな穴にだれかが落ちる。そして無事に出てきたときには、外の景色がまるで変わっているのだ。もちろん、心の内の景色も」(P80)。
 この里見公園新聞についてもこうしたことがいえる。偶然が偶然を呼んでいく。


石井床屋の前にある陸軍の裏門跡

■続・植草さんの話
 植草三郎さんの話は続く。
――国府台には床屋が1軒しかなくって、通称で「裏門の床屋」っていわれていました。床屋の前に今でもレンガがあるでしょう。あそこに昼間は歩哨が立っていました。夜はシナそば屋が売りに来て、兵隊さんたちが裏門の狭い所から出てきて食べていましたね。
――親父は病院の専属床屋でね、病院が今の所に移ってからも、精神病院は分院になって里見公園の方にありました。で、頭をやっているとき剃刀を患者に取られて、あわてて取り返そうとして手のひらを切って大怪我をしたんです。「もう病院の床屋はやだよ」って言ってました。
――陸軍の精神病院は全国でもここだけ。俺も陸軍に征ったんだが「頭がおかしくなったらここに来るからな」といって征きました。戦争に征って狂って帰ってきた人は大勢いました。爆弾が破裂しておかしくなる人とか伝染病でおかしくなる人とか。昭和12年にシナ事変が始まって、13年14年頃にこうした病人が増えて、精神病院を作ったんです。今の国府台病院から床屋の前を通って、精神病院にリヤカーで食べ物を運んだりしていました。

■緑を守ったのはパウラスさんか
 植草さんは空襲の話をこう語る。「小岩の方を爆撃して、国府台を避けて、市川の駅の方に爆弾を落としていったんです。ここには陸軍の兵舎があるのに落ちなかった」。
 2号で岡田さんは、パウラスさんが里見公園あたりの緑を守ったと話していたのを思いだす。本当にパウラスさんが里見公園周辺の緑を守ったのか、他にそうした資料はないか調べている。
 『社会福祉の道 40年の足跡を顧みて』(社会福祉法人チルドレン・パラダイス 平成7年発行)によると(P219)、パウラスさんの甥にメージャー・リーンという人がいる。彼はOSS(第二次世界大戦中の対敵諜報機関)およびCIA(中央諜報局)の極東地域の責任者だという。詳しいことは分からないが日本生まれで少年期まで日本で育ったという。
 この一文は松戸市の稔台保育園の園長、力丸庄司さんが寄せているのだが、奇遇にも力丸さんはリーン少佐の元で1年間行動を共にしたことがあるという。
 パウラスさんはこのリーン少佐にさまざまなことで助けてもらっている。

里見公園新聞

里見公園新聞 第12号 2007年8月5日(日) 発行:木ノ内博道


緑に包まれた里見公園
■パウラスさんと米軍の繋がり
 『社会福祉の道 40年の足跡を顧みて』によれば、日米開戦の直前(昭和16年10月)、パウラスさんは帰国している。
 そして、植草さんが言うように、戦争が終わるとパウラスさんは「すっとんで」日本にまたやってきた。
 終戦後の昭和22年に、まだ進駐軍の軍人と軍人の家族以外は日本の治安の関係で入国許可されていない時に、軍用物資を運ぶ貨物船に密かに乗り込み、密航者として上陸を果たす。ところが見つかってしまい、あやうく本国送還となってしまうところだったが、戦前から親交のあった人たちの協力や本人がGHQマッカーサー司令部に日参したことによって、異例の処置として、米軍の家族という形をとって滞在が許可される。
 その後は本所ベタニアホームの復興、国府台の軍隊跡地にあった将校集会所を大蔵省管財局より借り受けて国府台保育園を開設するなど、精力的に活動を開始する。
 この軍隊跡地には在日朝鮮人学生寮の看板があり、実際に学生たちが入居しており、全員退去してもらうのに6ヶ月を要したという。
 前号で触れたリーン少佐やGHQの人脈からパウラスさんは為替レートの情報を得る。当時1ドルが1円のレートであり、これが昭和26年9月のサンフランシスコ講和条約で、1ドル365円ほどになるということで、パウラスさんはドルを使わずに、円を借金して生活をしていた。講和条約締結後、ドルを売却し、相当の円を入手した。国府台保育園や国府台母子ホームなどの施設開設のために借金していた円をすべて返済したという。
 甥のメージャー・リーン少佐やGHQに交流があったこと。また、パウラスさんが日本の福祉に生涯をささげた意志の強い人であったことがうかがえるが、残念ながら里見公園の緑を守ったかどうかについてはこの資料では分からない。

■昭和34年の里見公園あたり
 本書には、子山保育園の副園長だった大橋耀子さんの一文がある。結婚して母子寮に住むことになるくだりで里見公園が語られる。
――国立国府台病院前で下車し、停留所前の大きな桜並木を歩いて里見八犬伝ゆかりの里見公園に向かい、坂道を下った右公園入口の真前が法人千葉ベタニアホームの敷地、大きな木が鬱蒼と生い茂り、薄暗い場所に母子寮と国府台保育園がありました。
――里見公園を右に見てだらだら坂を百米も下りていくと左手に韓国人の集落があり、右手にいつもあふれんばかりの清水が涌き出ていて、韓国の人達は日常その水を使い、よそからも大勢の人達が水を汲みに来ていましたし、江戸川につきあたる場所で、広々とした眺めは東京を一望にして人の気持ちをなごませ、疲れた時や夕暮れ時などに主人とよく散歩にでて京成駅まで足をのばしたものです。

里見公園新聞

里見公園新聞 第13号 2007年8月12日(日) 発行:木ノ内博道

 市川図書館に行った。郷土資料コーナーを覗くと、市川の歴史や民話を採取した資料が多くあった。しかし、エーネ・パウラスさんについての資料は皆無といっていい。わずかに『なんでもいちかわ 市川ひと事典』の2版(93年発行)に25行紹介されていたのみ。どうしたことでしょう。どこか奥の方にしまわれているのかな。
 里見八景園の資料も少ない。残念というしかない。
エーネ・パウラスさん、里見八景園についての写真を集めて、写真展を開いたらどうだろう。資料の収集、保存、市民の意識の高揚のためになると思うのだが。


市川時代の子山ホーム

■昭和35年の里見公園あたり
 12号に続いて、大橋耀子さんの文章を紹介する。昭和35年にベタニアホームからチルドレン・パラダイスに移った大橋さんはこう記している。
――大きな里見公園にそって歩き、公園を左に見てずっと奥まった高台の明るいところにまずパラダイスの事務所がありました。事務所に向かって左手に牛小舎と鶏小舎、その奥にパウラス先生のお住まいがありました。牛小舎と鶏小舎の前は沢山の立葵の花が色とりどりに咲きみだれ、先生のお家のまわりには水仙が一面きれいでした。畑の中に点在する子ども達の住まいはそれぞれ違った造りで、事務所も先生宅も子ども達の住まいもそのどこを見てもアメリカの開拓時代、テレビで見る西部劇に出てくる様な建物で、はじめて訪ねてみえたお客様は皆びっくりされていました。
 チルドレン・パラダイス周辺の異国情緒については子山ホームの園長だった大橋信雄さんがこう書いている。
――周りには畠が広がり隣には牛小舎があり牧歌的な眺めであり、当時女性週刊誌「女性自身」の初版のグラビアに“日本にある外国の風景”として紹介された。
 昔の国府台城の跡地であり、最近では造成されて民家が立ち並ぶ里見公園の奥には、昭和30年代に突如アーリーアメリカンの風景が出現したのだ。
 
■羅漢の井について
 市川市の発行した『データにみる市川市の都市基盤(概要)』(07年版)によると、平成19年度の再整備事業として里見公園に関しては「園路と史跡である羅漢の井の整備を予定している」とある。
 1年ほど前に「これはおかしい、市行政の恥ではないか」と投書したことがあるので、それが反映されたのかと思う。この機会だから公園の「羅漢の井」について触れておこう。
本紙でも、これまで多くの人が印象深く語ってきた羅漢の井。国府台の高台は水の便が悪く、羅漢の井から涌き出る上質の水は、昔から近年まで、水道が整備されるまではとても貴重だったらしい。水不足に悩む住民のために、通りかかった弘法大師が杖をたたいたところ水が涌きだしたという伝説もあるほどだ。(続く)

里見公園新聞

里見公園新聞 第14号 2007年8月19日(日) 発行:木ノ内博道


本当の「羅漢の井」は奥

ちょっと無粋な看板
■続・羅漢の井
 「羅漢の井」は「鐘が淵」を紹介するときに引用した『江戸名所図会』(1834年=天保5年に完成)にも紹介されている。
 由緒もあり地域の人に恵みをもたらした羅漢の井だが、ここを通るたびに不思議に思うことがある。
 奥まったところと道に面したところと2つ水がでている。奥の方に「こちらが羅漢の井」という看板がでているが、そちらの方は利用できるようにはなっていなくて、遠方から汲みに来る人たちも道路わきの水を汲んでいく。この水があやしげなのだ。真下から涌いているのではなくて、管によって引かれている。雨が降った時と降らない時では出る水の量が違う。ということはしっかりした涌き水とは言えないのではないか。さらに、管によって引かれた水のそばにこんな立て看板がある。「飲用されて病気等になっても責任は負えません。犬や車を洗う事を禁止・市川市」。
 飲み水として汲みに来る人はいても、さすがに犬や車を洗っている人は見かけない。ヘンな看板だ。しかもここに「羅漢の井」の解説の看板がでているので、だいたいはこちらが羅漢の井だと思ってしまう。私も引越してきたとき、わざわざこの水を汲みに来たものだ。
 市川市は全国でも有数の市政を行っている優れた自治体である。その市川市の市民に対するメッセージとしてはひどすぎないだろうか。もちろん最近は地下水も汚染されていることが多い。もしも飲み水に適さないなら、調べた上で「このような成分が含まれているので」と書けばいいのではないだろうか。  
 どうも説明責任を果たしていないように思うのだが。あるいは故意にこうしているのだろうか。このあたりには戦後不法に住みついた人が多く、そうした人が生きていくうえで欠かせない貴重な飲み水でもあった。この人たちを排除するための方法ででもあっただろうか。
 植草さんが話すように、まだ数十年前までは、羅漢の井はこんこんと湧いていたという。豊かな井戸だったのだ。整備をするなら形だけの整備ではなく、人の心をうるおす「羅漢の井」にしてほしいものだ。

■真夏の里見公園
 真夏の公園は蝉しぐれ。子どもたちが蝉や蝶を捕まえにやってくる。木陰は涼しいが、残念ながら蚊が多い。

里見公園新聞

里見公園新聞 第15号 2007年8月26日(日) 発行:木ノ内博道

■公園学というのがあってもいい
 「羅漢の井」が必ずしも歴史や住民の声を反映していないことについて前号で触れた。それから、真夏でも憩える公園であってほしいとも書いた。書いて1週間もすると、思いが醗酵してくる。
 個人的には、川風を感じながら木陰で涼のとれる公園だったらどんなにいいだろうと思う。それから、羅漢の井のことだけど、行政をあげつらうことはできるが、私たちがどれだけの声をあげてきたのだろう、とも思う。たぶん、公園学のようなものが必要なのだ。市民が集い楽しめる公園、それには市民が主体となってつくる公園でなくてはならない。
 公園の運営について知りたいと思って公園の事務所に行くと、市の公園土木課を紹介される。文化的なことについて知りたいのだというと教育委員会に行ってくれと言われる。園内のバラについては緑の基金事務局が取り組んでいるようだ。茶店は国府台の商店会が運営している。機能が統合されていないようだ。

■読者から
 9号で『南総里見八犬伝』について紹介したが、その時、国府台の戦いでは史実と違って里見軍が勝利し、南総にユートピアが実現する。それは滝沢馬琴の里見家に対する鎮魂の気持ちがあったのではないか、と書いた。
 ある読者から、「この著書が完成した1842年という幕末前夜には、物語の上とはいえ、史実を逆立させるという幕藩体制へのアンチテーゼを取り締まれなくなるほどに徳川幕府が衰退していたと読み取ったほうがいいのではないでしょうか」とのご意見をいただいた。
 反論を少し。1842年といえば天保の改革がなされて、為永春水が手鎖の刑に処せられた年。春水は43年に没している。むしろとても危険な時期だったろう。馬琴は48年に没しているが、28年かけて書いた八犬伝の最後の方は目が見えず、息子の妻に口述筆記してもらっている。妻の嫉妬が大変だったらしい。それはさておき、筆禍には用心深い人だったと思う。『完本 八犬伝の世界』(ちくま学芸文庫)で著者の高田衛氏が指摘していることだが、小説中、太田道灌と分かる登場人物だけ仮名にしていて、それは徳川幕府を刺激したくなかったからではないか、としている。いたずらに幕府を刺激するような人ではなかったと思う。
 この太田道灌、国府台城を作った人でもあり因縁は深い。いずれじっくり研究してみたい。

■鐘が淵再考
 羅漢の井の近くの「鐘が淵」については以前に紹介したが、この「鐘が淵」という名称は全国にある。
綿貫喜郎氏の『市川物語』(飯塚書房)を読んでいたら、鐘は曲尺(カネジャク)のカネが転じたもので、河川の大きく曲がった部分を言うのだと。曲がった所に流れがあれば当然底は深くえぐれて淵になる。ということは「鐘が淵」という名称が先にあって、そこから伝説が生まれたのかも知れない。
 ちなみに「市川」の由来だが、川市のたつところとか一番の川なので一川が転じて市川になったとか言われるが、やはり各所に市川という所がある。綿貫氏は、国府の近くに市川という地名が多いことに着目。しかし理由については書いていない。
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