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   (千葉県市川市)里見公園新聞  1号 2号 3号 4号 5号
里見公園新聞

第1号 2007年5月20日(日) 発行:木ノ内博道

 里見公園の近くに住んで早くも20年。自分ではもうながく住んでいる気になっているが、この辺は昔から住んでいる人も多く、20年でながいなどと言うと笑われるかも知れない。
 20年も住んでいるわりに、たぶんハイキングに来る小学生よりも里見公園のことを知らないと思う。考えてみれば、会社に行くだけの家だった。あらためて里見公園を中心に、この地域について学んでみたいと思い立った。それには、知ったことを共有するため、新聞をだすのがいいのではないかとこれまた思い立った。
 そんなわけで、「里見公園のことについてこんな情報があるよ」という読者に導かれるようにして里見公園について学んでいきたい。メールをお待ちしています。

ダイヤモンドフジはいつまで見られるか
 公園のなかほど、江戸川に面して東京方面が一望できる場所がある。眼下に江戸川。江戸川の対岸には小岩。そして東京のビル群。かなり運がよければ、はるか先に富士山もみえる。
 里見公園あたりがその昔戦場だったことを思うとき、この場所はいろいろなことを考えさせてくれる。見晴らしのいいこの高台は戦いのまさに戦略的拠点だったのだろう。里見公園近隣の歴史に思いを馳せるときには、またたびたびこの場所に立つことになるだろう。
東京が一望できるこの場所、案内板は掲げられているが、残念ながら名称がない。時々散歩していると、この場所に、高級なカメラをもった人がうろついている。どうやら撮影のポイントらしいのだ。
 富士山の頂上に太陽が沈むのを見ることができる場所。登山家の間ではダイヤモンドフジと呼ばれている。東京がこんもりとガスに包まれ、この場所からダイヤモンドフジを写真に納めることは年々難しくなってきている。
 日本には落日を拝する習慣がある。その落日が富士山の頂上に沈んでいくのであれば、さらに貴重なことのように思われる。日本には扶桑信仰など富士山を拝む信仰も多い。
 富士山に夕日が沈むのであれば、ここからの風景は真西を見ていることになるのだ。東京のビル群のなかに皇居を見ることもできる。明治天皇が崩御されたとき、明治神宮を国府台に作ろうという動きがあったと何かの本で読んだ。近代国家を支える帝都、東京という都市建設に際して風水の考えが取り入れられたようだが、皇居の東に位置するここは、聖なるエリアと考えられたのかも知れない。風水の方位術、奇門遁甲(キモントンコウ)は国家を脅かす術として解き明かそうとする者はみな打ち首にされた。里見公園の秘密は解き明かされるか。

里見公園新聞

第2号 2007年5月27日(日) 発行:木ノ内博道

 4月初旬、花見の喧騒があって、それが静まったころ、今度は藤だなが見事だった。で、いまはバラが例年になく美しく咲いている。桜、藤、バラ、来園者を見ていると、それぞれに鑑賞方法は異なるようだ。そして、早くも晩秋の紅葉に思いを馳せる。


エーネ・バウラス
里見茶屋で
 前号で、風水の方位術的に見て里見公園は聖なるエリアかも知れない、と書いた。
 今回、公園のなかほどにある里見茶屋(4、5年前から国府台の商店街が出しているお店)で働いている岡田洋子さんにお話をうかがった。岡田さんは昭和13年に国府台で生まれて、ずっと国府台の地に生きてきた人。
「昭和20年の3月、東京が空襲を受けたときは、東京の空一面がオレンジ色になって、火事になると風が吹くのね。灰と一緒にトタン板なんかがこちらまで飛んできた」と話す。「小学校1年の時でね、夜空に無数のトンボが飛んでいると思ったけど、アメリカの飛行機が爆弾を落として、帰っていくところだったの」。強烈な記憶なのだろう。「それでも国府台の方は爆撃を受けなかった。それはパウラスさんのおかげなの」。
「えっ、パウラスさん」と私は驚いた。個人的に児童福祉に興味があって、これからエーネ・パウラスさんのことを調べてみようと思っていたところだった。
 「兵舎のある国府台一帯が爆撃を受けなかったなんて嘘みたいな話でしょ。当時パウラスさんはアメリカに帰っていたけど、とても偉い方だったから」。国府台は、風水どころか、アメリカの宣教師によっても守られていたらしい。

パウラスさんのこと
パウラスさんはルーテル教会の宣教師として大正8年に来日。各地で「母子保育」の活動をするが、緑豊かな国府台をこよなく愛し、居を構え活動の拠点にしたようだ。
太平洋戦争の始まった昭和16年に帰国するが、昭和22年に再び来日し、活動を再開する。
「私もパウラスさんの作った幼稚園に通ったけど、パウラスさんには会ったことはないの」と岡田さん。
 公園に面して、国府台母子ホーム、国府台保育園などがある。これらもパウラスさんが戦後まもなく設置したものだ。
 パウラスさんがこの地を愛したのは、どうやら、住民との暖かい交流があったということ。いずれ、きちんとした形でパウラスさんの業績を調べてみたい。

里見公園新聞

第3号 2007年6月3日(日) 発行:木ノ内博道

再びダイヤモンドフジ
 今回は地域で酒屋さんをやっている田中謙一さん(昭和13年生まれ)にお話をうかがった。
 1号で触れたダイヤモンドフジ、田中さんも趣味にしており、場所は今の展望の場所ではなくもっと左に寄った所(展望の場所からではビルの陰になってしまう)とのことだった。毎年1月31日から2月3日に見ることができるが、天候の加減でこの7年間見ていないという。

再びパウラスさんのこと
 前号でパウラスさんについて触れたが、田中さんもパウラス幼稚園に通った一人だ。
 「ログハウスの自宅の1階が幼稚園になっていました。パウラスさんはウチの店にも買い物に来ました。しっかりしていて、意志を貫く人でしたね。子どもたちに出会うと、英語交じりの日本語で注意していました」。

鐘掛けの松
 羅漢の井の左の方に「鐘が淵」と呼ぶ深みがある。その道端に鐘を吊った松の木があった。鐘は里見軍が行徳から運んだものだというから、何代にもわたって植えられてきたのだろう。
昭和9年の台風で松の木は折れて倒れ、鐘は江戸川に沈んだ。今でもそのままになっているらしい。

 台風で何本もの松の木が倒れ、川沿いの農道をふさいでしまった。教導団という軍隊の学校の兵隊さんたちに頼んで切ってもらい、薪にして近所に配った。しかし、根っこだけは斧でも割れない。それどころか、斧の柄が折れて足に大怪我をするしまつ。
田中さんのお父さんが、新築する自宅の敷石代わりにしようと思ってもらってきて、放置しておいた。
 ところが、家族に病人がでたり、次々に災いが起こる。靖国神社の巫女もしたことがあり木曾で神通力を得たというお婆さんに祈祷してもらったところ、北向きの暗い所に古木のようなものがあって、そこに若い女の人の姿が見える。白装束で三つ眉毛。江戸川に投身自殺をしたのだが誰にも気づいてもらえず、世に出たいという。屋敷に祀ってもらえれば家を守るというので、しめ縄をはって祝詞をあげた。こうして、松の根は田中さんの家に祀られることになった。それがこの写真。
この国府台の地は450年も前に里見軍と北条軍が激しく戦った場所で、大勢の人が亡くなった。この女の人は、その時の里見ゆかりのお姫さまである、とお婆さんの祈祷師は言ったそうな。
 古戦場だけに、悲しい話が多い。

里見公園新聞

第4号 2007年6月10日(日) 発行:木ノ内博道

 今年のバラはひときわ美しかった。家族連れも多く、里見公園がちょっとお洒落になった感じ。データによると約93種、約600本のバラが植えられている、とか(公園のパンフレットによる)。
 春の見ごろはほぼ終わったが、10月中旬から11月末まで、春よりもさらに華やかさを増して見られるという。

バラ広場の歴史
 今回は、公園内にある(財)市川市緑の基金の事務局をお訪ねし土田芳教さんにお話をうかがった。
 当初公園にバラはなかった。バラ広場のできた経緯を聞くと、昭和28年ごろ、式場病院が中心となって、市川駅北口にバラサンクガーデン(サンクガーデンとはフラットな花壇のこと)が作られた。総武線の複々線化、駅の改築で、昭和40年代にその一部を里見公園に移設したのがはじまり。バラの手入れは難しく、移設したバラのほとんどは残っていないとのこと。
 平成15年、市川市の市制70周年を記念してバラ広場を整備、16年にバラの植樹を行った。市民の学びの場にしてもらおうと「バラ年間育成講座」をスタートさせたりもした。こうしてバラへの関心が高まってきた平成17年、式場きくよさん(当時91歳)から1通の手紙が届く。往時の市川駅バラサンクガーデンのいきさつがしたためられ、善意によってもたらされたバラは今でもあるでしょうか、というもの。手紙に基づいて調べてみると、バラに託された交流の歴史のあることが分かった(詳しいことは公園内のバラサンクガーデン案内板に書いてある)。
 市川市緑の基金は平成18年に20周年を迎えることから、二つの記念事業を企画した。一つは、バラ広場に隣接してバラサンクガーデンのミニ版を再現すること。もう一つが、オリジナルのバラに市民から名前をつけてもらおうというもの。
 勉強不足だったが、バラは市川の市花だった。ピンクのオリジナルバラにこのほど「ローズいちかわ」という名前がつけられた。バラサンクガーデンの横に植えられることになり、来年にはこの花を見ることができるという。
 土田さんは「現在ボランティアの会が組織されており、この人たちでバラの案内人制度を発足させたい」「公園に来て、里見公園という歴史的・文化的遺産と同時にバラも楽しんでいただきたい」「多くの人に来てほしい」と話す。
 古戦場跡で、ともすると悲しい伝説などの多い地域だが、華やかなバラが薫り高く匂う公園へと変貌しつつある。

里見公園新聞

第5号 2007年6月17日(日) 発行:木ノ内博道

公園の概要
 市川市役所の公園緑地課を訪ねたら、入り口に里見公園のパンフレットがあった。公園のあらましが紹介されているので、転載させていただくことにする。
 『里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。
 その後、室町時代天分7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。
 続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦でも北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
 江戸時代は徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であるところから、廃城となりました。
 明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。
 昭和34年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました』とある。
 2度の戦いとも勝ったのは北条氏であるが、なぜかこの地では里見氏に寄せる思いが強く、公園の名称も里見公園となっている。

里見八景園のこと
 このパンフレット、近代の里見公園周辺のことがすっぽり抜けている。
たとえば、大正11年に開設されて昭和8年まで続いたという一大レジャーランド「里見八景園」のことはどうして触れられていないのだろう。
 園内には茶店や動物園、演芸場、プール、音楽堂、そしてブランコやすべり台などの遊戯施設があったとか。1日ゆっくり楽しむことができ、関東各地から大勢の観光客が訪れたという。
 大正14年には谷津遊園も開園して、庶民の「楽しむことへの欲求」が旺盛になるなか、パイオニア的な存在だったはずだ。
 3号でご紹介した酒屋さんの田中謙一さんも、「鴻月という料亭まで親父がリヤカーで酒を届けて、帰りに松の根をもらってきた」と話していた。この鴻月という料亭も里見八景園のなかにあった。
この八景園は閉園後あとかたもなく壊されてしまった。なぜきれいに片付けられてしまったのだろう。戦時に突入していくなかで、相応しくなかったのだろうか。
 里見公園を歩くと、橋や滝、レンガなど、八景園のわずかな痕跡を見つけることができる。
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