TOPページへ いちかわTMO講座:卒業リポート(木ノ内博道)  '09.3.5
『里見公園論・・・場を主体とした自己設計』

1. はじめに(課題認識と射程)
 TMO講座の終了にあたって、経済圏に侵食されつつある場(ヴァナキュラーな領域)の回復を課題とした。
 私の住んでいる市川・国府台の里見公園周辺には、戦国時代の国府台の戦いにまつわる伝説・民話が多く語り継がれている。その伝説・民話化を通じて、住民の心性がどうであったのかを探りたい。伝説・民話化の過程には、住民の、伝説・民話化以外の技術では実現できない課題があったに違いない。そこから何が発掘できるのか。伝説・民話に託されたものはなにか、を探りたい。
 いま、里見公園は県内でも有名な“心霊スポット”である。伝説・民話としても思いを託せない現代の若者の、精神の問題にも踏み込んでみたい。
そして、里見公園を象徴環境ととらえ、フーコーが『自己のテクノロジー』で示したプラチック(述語的)なあり方を敷衍し、場所プラチック(場所が主体であり、人が場所に規制される)から“市川プラチック”構想を提案してみたい。これはこのリポートの射程であって、私の能力では言及可能性は低い。しかしそうであっても、山本哲士が『場所環境の意志』でたとえたように「革靴を履いた菜食主義者ではいられない」。近代の自己のありようを超えた、新しい自己(自由プラチック、自己が自己をずらしつづける、自己を述語化する)に挑戦してみたい。

2. 場とはなにか
 近代の産業的な様式は、経済的な画一空間を地球規模にまで拡張するものである。たとえば、公園という場所にしても限りなく拡張された経済空間の一つとなっている。里見公園をこうした秩序に組み入れようという勢力から奪還、回復する必要があるだろう。
 白川静の『字統』によれば、「場」とは「にわ、神を祀るところ」だという。「易」は台場に玉を置き、その玉光が下方に放射している形で、玉による魂振りの儀礼を意味する。その儀礼の行われるところを「場」というのだそうである。
 また「ヴァナキュラー」については、イリイチは経済の影響の及ばない領域のこととしてこの概念を提出している。たとえば、地域の道は子どもの遊び場でもあった。今ではそうした道路にまで渋滞に巻き込まれることを回避した車が進入してくる。経済活動に組み入れられてしまったわけだ。
 なぜ場の回復、市川プラチックを構想するかと言えば、地球環境の問題を論じる時、経済的に拡張された空間の環境を問題にしても解決には至らないからである。場を主体とする思想が構築されなければならない。

3. 「鐘が淵」、「鐘掛けの松」伝説・民話の生成
 里見公園の崖下は鐘が淵と呼ばれていた。今は浅瀬になっているが、昔は深い淵だったのである。鐘が淵と呼ばれるところは全国に多くある。その地名の特徴は川が極端に曲がって川底が深くえぐれたところである。川の曲がり具合から、曲尺(かねじゃく)が想起されて、曲が淵(かねがふち)となり、それが鐘が淵に変化した。また、鐘が淵は鐘の沈んでいるところを想起させ、松の木に鐘が掛かっている伝説・民話が派生する。それが落ちて鐘が淵になったというわけである。伝説・民話の芽は川の蛇行からきている。
 それが国府台の戦いという史実と結びつく。戦に勝った北条方の兵がいくら撞木をついても鳴らない松の木の鐘。足利に仕えていた女房が「自分たちの武将の首をもらって帰りたい。弔いをしたい」とやってくる。鐘を打って鳴ったら叶えてやると話す。武者の手ではかなわなかった鐘が、か弱い女の手でつくと鳴り響いて国府台の森にこだました。そして、ガラガラと音をたてて沈んでしまった。
 その鐘にも謂れが派生する。里見方が戦いの合図に使うために、船橋の寺から持ってきた『金銀吹き分けの鐘』で、江戸川の川面に反射する太陽の光を受けてまぶしく輝いている、と形容されている。
 伝説・民話は今も生成されている。地域の酒屋(田中酒店)の庭に立派な社がある。昭和9年の台風で鐘が淵のあたりの松が何本も倒れ農道をふさいでしまったので教導団の兵隊(店主の語りのまま)に切ってもらった。薪にして近所に配ったが、ある大きな根だけはなんとしても割れない。酒屋の先代があがりがまちの台にともらってきたら、家族に病人が出たりよくないことが次々と起こる。神通力をもったおばあさんに見てもらったところ、根に若い女の姿が見える。国府台の戦いで亡くなった武将のゆかりのお姫様だというので、鎮魂のために祀ったという。社には大きな松の根が鎮座している。

4. 戦国武将のお姫様伝説
 里見公園のなかには目立たないが「夜泣き石」がある。夜泣き石伝説・民話も各地にあるが、里見公園の夜泣き石にはこんな伝説・民話が伝わる。国府台の戦いで破れた里見弘次の末娘が、遠い安房の国からやってきて、嘆きの後に力尽きて亡くなった。そのそばにあった石が夜になるとすすり泣くような声をあげる。
 これに似た話は、じゅん菜公園のそばにある姫宮の祠にも伝わっている。昔、国府台の合戦で破れた里見軍の姫たちがこの沼に入水して死んだのを村人が哀れんで祀ったという。入水については真間の手古奈伝説・民話にもある。
 これらの伝説にはバリエーションも多い。

5.住民の心性
 敗れた武将を心配する姫たちの悲しい物語を住民たちが好んで紡ぐのはどうしてだろうか。戦国時代に戦場となった国府台近隣の住民は大きな負担と犠牲を強いられたはずだが、そうしたことの恨みがましさはどこにもない。
 生活者にとって安寧はもっとも大切なことに違いない。生活上の安寧だけではない。むしろ精神上の安寧こそが課題だったろう。
戦場の跡に住む者としては、死んだ武将の鎮魂は大きなテーマだった。伝説・民話に登場する姫たちは、実際に戦場にやってきたわけではないだろう。鎮魂のための想像上の人柱、1本の花、手向けられた線香だったのではないか。
大正後期から昭和初期にかけて、里見公園には不思議な常世が出現した。八景園である。当時の金で30万円もかけて作られた経済装置のはずなのに、ヴァナキュラーな領域を感じさせるのはなぜだろうか。映画『千と千尋の神隠し』のような、気分の高揚と癒し。ここにも戦場跡への鎮魂がありそうだ。
 若者にとって里見公園は心霊スポットとして有名であると前述したが、それは当然のことである。夜泣き石やむき出しになった石棺。隣接する寺の墓石。夜は閉めることになっているから外灯もない。深夜、公園内の茶店の電話が鳴り続けていた、などの尾ひれがついていく。これも一種の伝説・民話か。しかし、八景園には感じられたヴァナキュラーなものがここにはない。テレビやインターネットで拡張された「怖さ」を消費するだけのものだ。伝説・民話の形で託した鎮魂の思いは失われていく。

6. 文化環境的に再構築する
 住民が明確な形で技術開発することができずに伝説・民話として語り継いできたものをこそ、里見公園の文化環境として再構築すべきなのではないか。勝敗でいえば負けた里見方に思いを寄せ、想像上の人柱をたてて戦場に散った人々を弔う。その鎮魂が住民の安寧をもたらしていた。
 場にゆだねた住民の思いの紡ぎを、ひとつの技術として継承し、場に規制された自己を再び見出すことだ。良寛が、
いざさらば 我はこれより帰らまし ただ白雲のあるに任せて
と詠んだとき、自然の風物を媒介にして自分を自分から区別したように、近代個人の主体論であるアイデンティティを超えて、プラチックな世界へ踏み出す。
 思いは里見公園から市川市へと移る。主語世界を地域の歴史や文化において、自己を述語的に置き換える。ちなみに近代における自我は主語化された自己のことである。
 山本哲士によれば、環境プラチックとは、その場所の社会的・文化的な行為によって営まれている象徴的なものであるという。また、ハイパーヴァナキュラーを提唱する。その意味は、場所の述語的意志を自己表現しつつ場所主体を世界に開いていくことだとしている。この視点で、市川の学校システムに変わる学ぶ場所の設計、病院システムに変わる癒す場所の設計、公園システムに変わる憩いの場所の設計が急がれるのだ。
7. 蛇足的に
 個人的には、子どもの福祉に取り組んでいる。虐待や貧困によって、保護を必要する子どもたちが増えている。ところが、要保護児童は県行政に託されて、その9割を超える子どもたちが辺境の児童施設で暮らすことを余儀なくされている。いわゆる、隔離政策がとられている。
親から引き離さなければならない事情があったとして、なぜ地域からも引き離されなければならないのだろう。統計によれば550人に1人の割合でいる要保護児童を、地域に取り戻し地域の知恵によって養育すべきである。
地域にこそ主体があって、生きとし生けるものを受け入れる深い懐がほしい。いま、地域に要保護児童を受け入れるために、小学校に寄宿舎を作る計画を立案中である。

―― 参考資料 ――
@『場所環境の意志─地球環境設計へむけて』山本哲士著、新曜社刊
A『私家版 里見公園新聞』木ノ内博道
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