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謎解き手児奈
第7号
2018年9月1日(水)
編集・発行:謎解き手児奈研究会
〒272-0827 市川市国府台3−7−4
木ノ内博道
kino926@hotmail.co.jp
≪手児奈は庶民か≫
◆裸足だから庶民なのか

 手児奈の資料を見ていくと、手児奈が高貴な身分でなく庶民であるとする資料に、「履乎谷不著雖行(履(沓)をだにはかずに)」とあるので、裸足だから手児奈は庶民だと解釈している。しかし、この時代、庶民は最初からはだしであり、手児奈が庶民であるなら特別に言う必要はないはず。「履」は豪族や貴族階級用で、「貴族なのに履(沓)をはかないで」と訳すのが正しいだろう。

◆赤人が想う人としての手児奈
「位階」の視点から二人の歌人と手児奈をみてみよう。山辺赤人は外従六位下、他の資料では下級官人と書かれている。宮廷歌人は定説で八位以上なら調・庸・雑徭が免除され、国府での勤務ができる。赤人が上総国に少目で勤務していたとすると、庶民からすれば雲の上の存在。当然赤人の言い寄る相手についても位階を持っていないと違法行為にあたる。手児奈に言い寄るとすると手児奈は位階を持っている貴族ということになる。
いずれにしても、赤人も虫麻呂も下級官人だとしても宮廷歌人であり、彼らがあこがれる手児奈が庶民であるはずがない。天皇の前で庶民の娘にあこがれる歌を詠んだら処刑されてもおかしくない時代なのだ。
たとえば、かぐや姫は、垂仁天皇の妃、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)と名前が出てくる。「竹野比売」(たかのひめ)の娘ともなっていて、竹つながりで推測されやすい。手児奈もこんな風だとうれしいのだが、まぁ誰も手児奈の身分についてなど真剣に考えたことはないのだろう。

◆律令時代の位階

当時、貴族は庶民などには興味がなかったはず。
律令時代の階級(位階)は正一位から始まって40段階くらいに分けている。名前においても八色の姓が制定されて、身分によって姓が付けられる。ちなみに赤人は「宿禰(すくね)」という姓が与えられた。正式には山部宿禰赤人となる。
庶民にも階級が付けられ、農民は耕作する場所で「官戸」「官奴婢」と呼ばれ、逃亡は禁止され売買の対象になっていた。この制度は律令制が崩壊するまで続いた。
こんな時代に、宮廷のなかで庶民の話をしても誰も理解できないはず。庶民には全く関心はなかった。庶民は道具にしか扱われていない。労力が税となっていることからもわかる。庶民が困ろうが死のうが一切気にしていない。手児奈が庶民だったら自殺をしても誰も気に留めないはず。
もう一つ、手児奈の歌から推測すると、求愛する男は貴族。当時庶民の間ですら異なった階級での婚姻は禁止されていた。このことからも手児奈は貴族であると断定していい。
手児奈庶民説については、9世紀以降身分制度が緩やかになり、その後、手児奈は庶民だと変化して行ったのではないだろうか。

≪モデルとしての手児奈≫
◆宮廷歌人の役割

 虫麻呂、赤人、二人の歌人が手児奈をよんだ意図はなんだろうか。宮廷の誰かを歌にしたい、しかし事情があってあからさまには歌にできない、そうした事情のある人が当時宮廷にいたかどうか、その辺がヒントになりそうだ。
山辺皇女とも考えたが、赤人と虫麻呂の歌を熟読すると時代はもっと古いのではないかと思えてきた。
二人の歌に共通してあるのは以下の言葉で、時代的にはかなり昔の宮廷の話を、舞台を葛飾にして語っているのではないか。
「古(いにしへ)に ありける」 「古(いにしへ)に ありけむ人の」。

◆歌人二人の共通点

何度も取り上げるが、虫麻呂、赤人の共通点は藤原氏である。虫麻呂の場合、上司である藤原宇合は常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任ぜられる。赤人も故藤原不比等の歌を詠んでいることから藤原氏と深い関係があったとされている。
手児奈を歌った二人が藤原氏つながりなので、藤原氏の家系を調べた。出て来たのは藤原氏ではなく、大伴氏の系図。藤原一族の繁栄を築いた藤原鎌足の母が大伴系。
崇峻天皇の后の名前が子手古。蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の二人をもうける。崇峻天皇暗殺で京から東北まで逃げ入水自殺。小手姫伝説として今に伝わる。

◆小手姫伝説

すでに2号で取り上げた小手子。日本書紀には「小手子が天皇の寵愛が衰えたことを恨み、献上された猪を見て天皇が漏らした(蘇我馬子を打つ)という独り言を、馬子に密告したことで、馬子は崇峻天皇を暗殺した。小手子は追っ手から逃げのびるために東北へ。そして東北で小手姫伝説となる。
実際はこんな単純な話ではなく、そこには崇峻天皇と蘇我馬子との対立があるのだが、崇峻天皇の妃の一人は馬子の娘でもある。登場人物的には、
崇峻天皇と3人の妃
小手子・・・大伴家(藤原氏)
小手子の父は藤原鎌足の祖父
河上娘・・・蘇我馬子の娘
布都姫・・・蘇我馬子の妻(蘇我蝦夷の母)
登場人物はもっと多く、そして絡み合うが、省略しておく。宮廷歌人は複雑な家系、対人関係をすべて理解してうたっていたはずである。少しでも間違えれば命取りになることは間違いない。ここからの推測はまたの機会に。

≪手児奈、山辺皇女説≫
◆手児奈は山辺皇女では、という説

赤人、虫麻呂は、手児奈伝説を借りて山辺皇女を歌ったのではないか。先にも述べたが、当時の歌全体が、朝廷や貴族を直接歌うのではなく、別の素材を使いながら、直接にはいえないことを歌にしていく。

◆はじめに原型となる手児奈伝説があった
虫麻呂、赤人は宮廷歌人として、宮廷で話題になるような歌、もしくは話題になっている歌を詠むことが重要になる。
虫麻呂の歌で、「菟原処女(うなひをとめ)の墓」がある。この墓は神戸市東灘区の前方後方墳(処女塚の古墳)、「浦の島子(浦島太郎)」は日本書紀から。そして手児奈は虫麻呂が現地を訪れた時に詠んだという形態になっているが、赤人も詠んでいることから、底本となるものがあったのではないか。下総国風土記が存在し、そこに手児奈の伝説が紹介されていた可能性がある。
風土記は713年に元明天皇が諸国に「風土記」の編纂を命じたもの。常陸国風土記は721年成立とあるが、藤原宇合が常陸国守に任命されたのが719年。もっと前に成立していたとしてもおかしくない。
手児奈の歌は虫麻呂、赤人が詠んでいるが(万葉集)、どちらが先に詠んだとしても、それが初めての歌だとしたら後から詠んだ歌人は「まねた」とされ、後ろ指を指されるのは必至だろう。手児奈伝説は二人の歌を基に発展したとしても、虫麻呂、赤人両人には底本になる題材があったに違いない。
虫麻呂のうたった菟原処女、浦島子、手児奈はいずれも風土記を読んで作った歌ではないか。ついでにいえば、虫麻呂は「上総の珠名娘子」についても詠んでいる。
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