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◆手児奈の奥津城は弘法寺境内にある古墳か 虫麻呂の歌に、上総の周淮すゑの珠名娘子(たまなをとめ)を詠む歌、というのがある。千葉県富津市の前方後円墳が「珠名塚」と呼ばれていた。また、虫麻呂の歌でもう一つ「菟原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌」がある。これも神戸市東灘区にある三つの前方後円墳のことである。どうやら奥津城とは古墳のことらしい。 そこで、万葉集の歌人の歌に「奥津城」という言葉がある歌は他にはないか調べてみた。全部調べるわけにもいかないので適当に。すると、大伴家持がうたっている。 「大伴の遠つ神祖の奥つ城は著しるく標しめ立て人の知るべく」(18-4096) (訳・大伴氏の遠い祖先の神の墳墓には、はっきりと墓標を立てよ、世の人がそれと判るように)。この、大伴氏の歌の奥津城は古墳と見て間違いないだろう。 奥津城は古墳のことを言っているし、「墓」もほとんどが古墳の意味で使われているとしていいのではないか。 赤人が人からここだと聞いて訪ねたのは古墳であり、そこを手児奈の墓だと思っていた。荒れ果てた古墳を見て「わたしも見た 人にも話そう 葛飾の 真間の手児名の 墓所を」と歌った。 大伴家持も荒れた古墳に赤人と同じような感情を抱いたのだろう。 ◆当時の古墳観 真間山と言わず国府台には幾つかの古墳がある。里見公園内には明戸古墳、東京医科歯科大学のキャンパスには法皇塚古墳。こうしたもののどれかが手児奈の奥津城とみていいのではないだろうか。 奈良・平安時代には、どうも古墳の内容物には興味を示さなかったらしい。歌の詠み方からすると、古墳の中ではなく古墳の景観を眺めていたという感じである。古墳に畏敬の念を持っていた。古墳が荒らされたのはどうも近世になってからではないだろうか。現代は古墳を見つけると必ず中の物を取りだしてしまう。それは、悠久の時代の流れからみたら、研究と言う名の墓荒らしと言えよう。 ◆万葉集に関係のある古墳の歌探し 万葉集に関係のある古墳はないかと調べていたら、奈良県葛城市染野の鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん)の案内板に書かれている歌を見つけた。大伯皇女の歌である。どこかで聞いたことのある名前。やはり大津皇子の姉である。 大津皇子の妃は手児奈のモデルとなったと思われる山辺皇女。また、紹介したように鳥谷口古墳は葛城にある。以前にも書いたが、葛飾は葛城つながりではないか。葛城を喚起させる意味で葛飾を詠む。この古墳のそばには池もある。想像をたくましくすると山辺皇女が身を投げた池だろうかと思えてくる。 鳥谷口古墳は大津皇子の墓と言われている。山辺皇女の墓は不明だが、妃であるから大津皇子と同じ場所に葬られている可能性がある。ひょっとしたら鳥谷口古墳こそが手児奈の墓のモデルなのではないか。 京に近いし、赤人や虫麻呂が訪れていてもおかしくない。日本書紀に書かれているこの題材を虫麻呂がモチーフとして手児奈の歌を詠んだということもあり得よう。 ◆家持の歌にある古墳 家持の歌に古墳を詠んだものをみつけた。 「十六年春二月、安積皇子薨(かむあが)りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作る歌 我が王(おほきみ)天知らさむと思はねば凡(おほ)にぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)(3-476)」。 (訳・我が主君がそこで天界を支配なされようとは〈そこに埋葬されようとは〉思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたものだ、この和束の杣山を)。 死んだ安積皇子と家持は親しい間柄。埋葬されて初めて杣山(そまやま)が墳墓だと知ったようだ。杣山を今までおろそかに見て来たことに後悔している。大伴家持ですら、古墳に大した興味はなく普通の山として見ていたことがわかる。 ※和束(わづか)というのは京都府和束町の丘陵。 ◆手児奈伝説と二人の歌人 ああでもないこうでもない、とみてきて、今の手児奈伝説は万葉集の手児奈の歌を基に、庶民風にアレンジされて幾通りもの手児奈伝説が作られていったものとみていいだろう。 では、万葉集の手児奈の歌は何をもとに詠ったのか。それを想像するには皇族、武家、古墳、宗教、思想など、当時のさまざまなことを知る必要がある。そうしないと皇族を喜ばせるように歌を作る宮廷歌人の歌は理解できないだろう。 赤人、虫麻呂は複数の伝説や資料(日本書紀など)から宮廷受けする歌を詠んだに違いない。まずはスポンサーを喜ばすことが彼らの仕事なのだから。 先に紹介した、虫麻呂の兎原処女の歌も天皇家の古墳賛歌である。 「葦屋の菟原処女の奥つ城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ」(9-1810) (訳・葦屋の菟原処女の墓を、往き来のたびに見れば、声を上げて泣かれてならない) 虫麻呂の歌の手法からすれば、手児奈の奥津城はどこかの古墳だと推測できる。赤人が訪ねているのも事実だとすると、これも古墳ということになる。 さらに、宮廷を喜ばすということを前提にすると、葛飾の名を借りて、実際は宮廷に親しみのある中央、またはその周辺に存在する古墳を題材に詠うだろう。とするなら、弘法寺や国府台の古墳ではないといえる。 ◆奈良時代の歌人と古墳 古墳が当時の伝説の舞台になっている。奈良時代の歌人は古墳に身近な夢を抱いていたのではないか。奈良時代の少数の選び抜かれた人だけが読むことができる書物、古事記、日本書紀、風土記、当時はもっとあったかも知れないが。 《下総国風土記に手児奈が紹介されていたら》 ◆当時の下総国風土記になにが書かれていたか 常陸風土記に虫麻呂好みの童子女の松原がある(すでに紹介した)が、墓(古墳)が出てこないので虫麻呂は歌にしなかったのではないか。 現存しないが、当時は下総国、安房国、上総国などの風土記が存在し、古墳がらみの伝説も取り上げたことだろう。もしもこれらの風土記に古墳が紹介されていたとしたら。そして手児奈の伝説が取り上げられていたら。 虫麻呂も他の歌人と同様に恋歌が好きだが、特に古墳に興味があったようだ。失われた風土記に、古墳がらみの手児奈伝説があったとしたらどうだろう。なぜなら赤人も手児奈を詠み、奥津城(古墳)を訪れているとするならば、虫麻呂の歌に触発されて手児奈を詠んだのではなくて、下総国風土記の手児奈伝説あたりからの歌とした方が自然だろう。これらは残念ながら、今となっては想像の域でしかないが。 ◆もしもが許される素人の発想 失われた風土記に何が書いてあったのか、誰も指摘していない。あったとは言われているが、想像の世界では話にならない。それでも、素人は空想の世界だからこそ面白いし楽しめる。 失われた下総国風土記に古墳のことや手児奈伝説が書かれていた。それをもとに虫麻呂、赤人が歌を詠んだ。宮廷受けするようにアレンジして。そのアレンジの意図は何か。そしてどのような意味がそこに込められていたのだろうか。 |
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