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謎解き手児奈
第5号
2018年7月1日(日)
編集・発行:謎解き手児奈研究会
〒272-0827 市川市国府台3−7−4
木ノ内博道
kino926@hotmail.co.jp
≪大伴旅人と下総≫
◆虫麻呂の大伴旅人見送り

 赤人、虫麻呂の足跡を追いかけるうち、それぞれ個性の違いなども分かってきて、まるでこの時代に私も生きていたような感覚になる。
 筑波山を案内して、虫麻呂が大伴卿を見送る時の歌を紹介しよう。
*       *
鹿島郡の苅野橋(かるののはし)にて、大伴卿に別るる歌一首
ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの 小舟を設け 玉巻きの 小楫繁貫き 夕潮の 満ちのとどみに 御船子を 率ひたてて 呼びたてて 御船出でなば 浜も狭に 後れ並み居て こいまろび 恋ひかも居らむ 足すりし 音のみや泣かむ 海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば

返歌
海つ道ぢの凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや


調べてみると「鹿島郡の苅野橋」は茨城県神栖市の神之池(ごうのいけ)付近らしい。「海上のその津を指して」の海上とは、下総国の海上郡を指すと解説にある。下総国の海上郡とは今の匝瑳市(そうさし)であろう。匝瑳市は現在でも巨木の多い、歴史を感じさせる町である。暖流の黒潮はこの辺から海岸線を離れて、太平洋沖に流れ込む。京方面からの積み荷などはここで降ろして内陸や東北方面に運んだと思われる。下総の代表的な場所であったはずだ。利根川の流れも江戸川の方に流れていて、千葉から歩いて常陸の方に行くことは容易だった。
少し脱線するが、下総の国府あるいは国府に類似するものは匝瑳市にあったのではないか。下総国海上国造の他田日奉部直神護解(おさだのひまつりの じんご)は京に出て平城京に住むという出世をしている。
検税使の旅人がわざわざ船で海上国造を訪れたのは下総国の主要人物が海上国造だからではないか。
こうしてみると、市川市の国府台に正式な国府が出来たのは、街道が国府台を通るようになった平安時代ではないのだろうか。
これらは、千葉県誌の遺跡等の発掘密度と交通ルートからみて、今の印旛沼周辺と匝瑳市あたりが発展していたであろうと想像できる。
本題に戻って、三宅の潟にさし向ふ鹿島の崎(三宅の浦に向かい合う鹿島の崎)から出発して、海上のその津(海上郡の港)を目指して行く。旅人は今の匝瑳市へ向かったことになる。船で帰ったのだろうか。匝瑳市から駅路を通って成田に向かったのだろうか。

≪赤人、虫麻呂の位について≫
◆赤人と虫麻呂の位の違い

 手児奈を歌った2人の位について調べてみた。
まず赤人は宿祢(すくね)。これは身分制度における姓である。当時、庶民以外では、担当する部署によって姓が付けられていた。山部赤人の山部姓は山林管理や産物を貢納する、その総括する伴造氏族に入る。
新しい身分制度の「八色の姓」が制定される前は臣・連・伴造・国造という四つの姓があった。684年に天武天皇により「八色の姓」という身分制度が出来た時に、臣・連の中から天皇に関係の深い人を選んで真人・朝臣・宿祢という姓を与えた。
山部赤人の正確な名前は宿祢姓をもらって、山部宿祢赤人となった。
一方の高橋虫麻呂の姓についてはどうだろうか。彼は正確には高橋連虫麻呂。「連」が入る。赤人と違い八色の姓が制定された時に姓をもらっていない。ということは赤人に比べ天皇一族から遠い位置にあったと推測できる。その辺から、虫麻呂は藤原派、赤人は天皇派(聖武天皇)とみることができる。さらに検証が必要だが。
赤人は山部姓を名乗る由緒がありそうな人物。虫麻呂は連姓で赤人よりも若干下のような感じ。一番のポイントは、赤人は宿禰という八色の姓で制定された三番目の位の姓を付けていること。
これだけでも雲泥の差があるだろう。赤人が藤原不比等の亡きあと、不比等の家で歌を詠んでることからもそれがわかる。
虫麻呂は宇合の太鼓持ち的存在だったのではないだろうか。旅人が船で出発した時も、一緒に乗ることはなく見送るだけの存在。そして、目いっぱい別れを惜しむ歌を詠む。どうみてもゴマすりの歌に見える。
赤人は宿祢姓で連姓の虫麻呂の方がランクが下。しかし、位については、実際はどうだったかは分からないとも言える。天皇と藤原の力関係が関わってくるからだ。藤原不比等は朝臣(あそん)という姓を賜っている(藤原朝臣不比等)。朝臣は皇族以外では最高の姓(最高は皇族だけに付く真人)。
藤原姓は天智天皇が特別に与えた姓で、太政官は藤原不比等の子孫でなければならない、という絶対的権力を持つ姓。太政官とは司法、行政、立法を司る最高機関。太政大臣となれば実質的権力を握り天皇よりも上になる。
太政官は明治維新でも設けられ、現在は内閣府となっている。太政大臣は総理大臣になるが、権力は今とは比べ物にならない。いざとなれば天皇よりも強い権力を持つ藤原氏(藤原宇合)に気に入れられた虫麻呂はかなり恩恵を受けていたのではないか。実際、不比等は自分を批判する天皇ですら弾圧したと言われている。当時の藤原姓の実質的権力は想像も出来ないほど強かったはず。
赤人も「故太政大臣藤原家の山池」という不比等の家を訪れた歌を詠んでいる。当時の背景を考えると、私も藤原家とは懇意なんだよ、というアピールとも思える。
虫麻呂は藤原、赤人は聖武と派閥的に考えられる。このことが手児奈の歌にも反映される。

◆「卿」について
ついでに、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時、など人名の後に付く「卿」、これはなんだろうか。卿は普通、三位以上または参議以上の人に付く。そういう意味で、卿が付いたらかなり偉い。宇合は常陸国守に任命された時から比べるとかなり出世している。

◆手児奈を詠む意味
藤原不比等は娘の宮子、光明子を天皇家に嫁がせ、家系に天皇を取り込むことに成功する。当時独身で即位した元正天皇(女性)には男が群がって当然(4号参照)。
なぜ元正天皇は独身を貫いたのか。自分の家系に天皇家を取り込むための藤原氏の妨害(他の皇族との結婚の阻止)があったのではないか。
複雑な状況の中をいかにしてうまく世渡りするか、それは宮廷歌人の宿命のようにも考えられる。うがって言えば、元正天皇に手児奈をダブらせたとも考えられる。
元正天皇時代に赤人が手児奈を詠み、それに気をよくした元正天皇を見て虫麻呂が続いた。
万葉集では赤人が第三巻に、虫麻呂は第九巻に載っているというのも何か関係がありそうだと思うが、残念ながら決め手を欠いた。

◆虫麻呂の感性
性格的に肉食か草食か。たとえば大伴家持は、大伴家は天皇の為に死をもって仕えてきたと言い、太刀を持ち、弓を持つことに生きがいを感じ、古墳に大伴の名がないことに怒りを感じている。
一方、虫麻呂は墳墓と見れば男女の色恋沙汰の末路と見て、三角関係を想像する。髪に花をさして一日中遊んでいる公家の歌を詠んだり、太刀が出てくれば色恋沙汰の果てのもつれしか描いていない。赤人も同様である。
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