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謎解き手児奈
第4号
2018年7月1日(日)
編集・発行:謎解き手児奈研究会
〒272-0827 市川市国府台3-7-4
木ノ内博道
kino926@hotmail.co.jp
《3号の訂正》
◆手児奈の奥津城(墓)について

 早々に訂正。3号≪倭文幡の帯について≫のところで、手児奈の墓は見つかっていない、と断定してしまったが、赤人は見つかったとも見つからなかったとも言っていない。
 繰り返しになるが、「真間(まま)の手児名(てごな)が奥つきを、こことは聞けど真木(まき)の葉や茂りたるらむ松が根や遠くひさしき言(こと)のみも、名のみも吾(われ)は忘(わす)らゆましじ」。
当時、一般庶民に墓をたてる習慣はなく、赤人が「奥津城」と言っているので、神道スタイル、そして皇族または高貴な人の墓だと言っている。「こことは聞けど」と言っているので、墓の場所を知っている人に聞いた、としている。しかし見つけたとは言っていない。確証がつかみづらい。
「真木の葉や茂りたるらむ」とある。真木とは立派な木のこと。檜や杉のことを言う場合もある。葉が茂っていたりしていて墓は見当たらないが、忘れられないと赤人は言っている。真間に立派な木があったのだろうか。当時は海の入り江のようなところなのに。
ところで、赤人の詠み方から、手児奈は倭姫王(やまとひめのおおきみ、生没年不詳)なのではないかと感じる。
倭姫王は皇后であったにもかかわらず詳細は不明。皇位争いで敗れ、歴史的に消されてしまったであろう人。混乱の時代の倭姫王の墓を人づてに聞いて50~80年後訪れた赤人が、草木は茂り、長い年月を感じさせる、と詠んだのではないか。
「吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が 奥津城処」。倭姫王の荒れはてた場所も特定できない墓所の状態を見て、皆に教えなくてはと強い口調で言っているように思える。これについては後述。

《テコとコナについて》その3
◆手古塚古墳

テコをたよりに遺跡や地名を探していて、残念に思うことがある。東京湾を見渡せる丘陵地の木更津市小浜にあったという手古塚古墳。いまは公園になっていて古墳は跡形もない。しかし、資料によれば前方後円墳だったようで、多くの鏡、玉、刀などが発掘されている。

◆『「常陸風土記」入門ノート』を読む
 『「常陸風土記」入門ノート』(増田寧著)を読んでいる。唐に行ってきた宇合が儒教的だと批判されていたり、筑波峯の会について虫麻呂が歌を寄せていて、その碑が紹介されるなど、やはり「常陸風土記」編纂に宇合が関わっていたことや虫麻呂の存在が書かれている。この時代、任命はされても現地に赴かないケースは多いので、どうやら来たのだな、と改めて思わせる。
 「常陸風土記」七の十三に「童子女(うねゐ)の松原」という話がある。神のおとことおんなが恋をした。夜、松の陰に隠れて甘く語るうちに、気がつくと朝になっていた。人に見られるのが恥ずかしいので、松の樹になってしまった、という話。この松、郎子の松を奈羨松(なみまつ)、嬢子の松を古津松(こつまつ)という。松に「並み」と「屑」が掛けられているようだ。
 この松を探して筆者(増田氏)は訪ね歩く。銚子大橋のたもと(波崎)に手子后神社がある。土地の人に由緒を聞いても分からないというが、調べると祭神は手子姫命。その先に松原公園があって、寒田の郎子と安是の嬢子の銅像がある。
 また、奈美松・古津松を祀った神社が石岡市の中津川にあると聞いて訪ねる。神栖町の郷土史家、伊東氏に聞くと「手子后神社と手后崎神社と二社あって、波松、木屑松を祭神にしている。高橋虫麻呂が軽野にやってきて、童子の松原の悲劇、郎子・嬢子の死を聞き、その怨霊を慰めるために祀ったのだろう」と言ったとのこと。
 虫麻呂の話など、はるか昔のことだし、どれだけ本当のことか分からないが、手児奈とあわせて、こうした情に訴えるような話に虫麻呂は弱いらしい。

《虫麻呂研究》
◆虫麻呂は真間に来たのか

藤原宇合は常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任ぜられた。赴任したとして虫麻呂がそれに同行したかどうか。疑えばきりがないが、虫麻呂が同行したとして、果たして下総の真間まで来たのかどうか、疑いはつきない。
真間に来たとすると当然国府への立ち寄りが目的のはずだが、当時国府ができていたのかどうかもいまでは分からない。
下総の国府が国分寺建立と時期を同じくすると仮定すると、741年となり宇合が常陸国守に命じられた年と数十年の開きがある。
宇合が常陸国守として赴任し、按察使として下総に来たと仮定しても、当時の国造は船橋を拠点にしているので、真間までは足を延ばしていないのではないだろうか。
また、虫麻呂の歌にこうある。
湊(みなと)入(い)りに 船漕(こ)ぐごとく 行(ゆ)きがくれ(港に入ろうと 船を急いで漕ぐように寄り集まり)
当時の真間はこんなににぎわっていただろうか。
噂だけを聞き、自分が知っている琵琶湖の情景をダブらせて歌ったのではないか。

◆兎原処女(うないおとめ)についての歌

虫麻呂は手児奈と同じように兎原処女についても詠っている。「兎原処女を、男たちが争って夜這いする。それを嘆いた兎原は入水自殺。兎原を求めて争っていた男二人も自害する」というあらすじ。
文体などどこか手児奈と似ている箇所も多い。倭文も出てくる。そのくだりを紹介する。
吾妹子が 母に語らく倭文(しつ)手纒(てま)き 賎(いや)しき吾が故(ゆゑ) 
訳文にこうある。「貴女が母に語るには日本製の錦の帯を手に巻くような貧しい私のために」。倭文が何かを知らないので変な訳になっている。

◆虫麻呂は大伴卿を見送っている?

ある年の夏に「検税使大伴卿、筑波山に登る時の歌」を虫麻呂が詠んでいるのを見つけた。大友卿は大友旅人。歌った後、虫麻呂は鹿島の崎(銚子)から船で都に帰る旅人を見送っている。そして、虫麻呂は秋にまた筑波山に登る。この時は単独と思われる。
虫麻呂の歌から推測すると、常陸国へは大友旅人と同行したのではないかとも考えられる。
常陸国での歌には旅人だけで、宇合の影はない。
筑波山で虫麻呂はこう歌う。
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我(わ)も交はらむ 我が妻に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
虫麻呂はどうもこのような歌が好きそうだ。格調のない虫麻呂の歌がなぜ万葉集に取り上げられたのか。万葉歌人の中では異色の個性的な長歌を残しているので、その個性を認められたのか。はたまた、万葉集の編者の誰かに好かれていたのか。編者の中に元正天皇(女性)が見られるところから、元正天皇は虫麻呂を好いていたとも考えられる。
 赤人と虫麻呂の社会的地位や出身の違いについては次号に譲ろう。
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