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謎解き手児奈
第3号
2018年4月1日(日)
編集・発行:謎解き手児奈研究会
〒272-0827 市川市国府台3−7−4
木ノ内博道
kino926@hotmail.co.jp
≪前号の振り返り≫
◆馬娘婚姻譚

 前号で、茨城県に多い手子后神社のいわれを訪ねるうち、手子后神社が中国のノーマ神であることにまで遡ってしまった。そして、ノーマ神は蚕馬(さんば)でもあったとも。その後に紹介した小手姫伝説にも養蚕の話が出てくる。
私は以前、馬娘婚姻譚の話に興味を持ったことがある。私の母方の家が農家で、土間の一角に牛を飼っていた。昔の農家は、日常の暮らしの中に牛や馬がいた。馬娘婚姻譚では、飼っていた馬に娘が恋をしてしまう。それを知った父親が怒って馬を殺す。娘は嘆き悲しみながら、殺された馬の皮にくるまって昇天してしまう。その後に空から白いものが降ってきた。それが蚕の繭だった、という話。中国に原型はあるが、東北の養蚕地帯の「おしら様」信仰として伝わる。
ところで小手姫伝説だが、本来は姫ではなくて崇峻天皇の后のはず。また后が蚕の飼い方や布の織り方を知っているとは思えない。技術者が同行していた、と考えるべきか。
前号での大胆な仮説。大伴小手子のことを、なぜ手児奈という名にして歌ったのか。これには、天皇、大伴、藤原などの家系や、当時の事件(謀反、裏切りなど)が関係してくるので、年代的流れや政略結婚などの基本を押えないと理解できないので、もっと先に行ってから考えてみたい。

≪藤原宇合を追って≫
◆忙しい宇合
手児奈を歌った虫麻呂、赤人とも同時代の人で、時代背景から言えば藤原宇合(ふじわらのうまかい)が常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任じられている頃、と前号で紹介した。これに虫麻呂、赤人は同行した、と想像できる。宇合の活動を見ておくと、
・716年8月に第9次遣唐使の使節が任命される
が、宇合は遣唐副使に
・717年6月〜7月ごろ入唐し、10月に長安
・718年10月に遣唐使節一行は九州に帰着
・719年正月に復命を果たす(入京)。7月の按察
使設置時に、常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命
・720年8月に父の右大臣・藤原不比等死亡
・724年3月に海道の蝦夷が反乱。4月に持節大将
軍に任命され反乱を鎮圧するために遠征。11月
に帰還
・726年 知造難波宮事に任命

◆常陸風土記との関連

常陸風土記は713年から編纂が始まり721年に完成した。とすると、宇合が常陸守だったことからも、宇合が編纂に関与したとも考えられる。宇合に同行した虫麻呂が常陸国での言い伝えを聞き、手児奈の歌を詠んだ。

≪倭文幡の帯について≫
◆赤人の長歌

古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯(おび)解き交(か)へて 廬屋(ふせや)立て 妻問(つまど)ひしけむ 葛飾(かづしか)の 真間(まま)の手児名(てごな)が 奥つきを こことは聞けど 真木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠くひさしき 言(こと)のみも 名のみも吾(われ)は 忘(わす)らゆましじ 
 手児奈に関する情報はここに集約されているので、確認のためにこれからもここに戻ってくることになるだろう。それにしても、墓も残っていないといいながら、こんなに具体的に手児奈のイメージを描けるものだろうか。単なる赤人の想像でしかないのかも知れない。
それはさておき、上記の一行目に「倭文幡(しつはた)の帯(おび)解き交(か)へて」とある。この倭文幡(しつはた)だが、倭文(しず)神社というのが日本中にある。これは織物の神様。小手子伝説には織物を伝えたという伝説がある(第2号で紹介した)。小手子伝説では福島県伊達郡川俣地区とあるが、静神社というのが茨城県那珂市静にある。
『常陸国風土記』久慈郡の条には「静織(しどり)の里」とある。『和名類聚抄』には常陸国久慈郡に「倭文郷(しどりごう)」の記載がある。倭文神社が地名の静を取って「静神社」となったようだ。
日本書紀に、倭文(しず)という織物があり、専門の部署が存在していたとあるが、どのようなものかは不明。倭文織は幻の織物と呼ばれていた。
1996年2月、下池山古墳の竪穴式石室から発見された大型内行花文鏡の周囲に付着していた縞模様に染められた織物がわが国特有の織物であり「倭文織」だと考えられている。古墳から発見された織物の分析の結果、絹を中心とした「大麻と絹繊維」から出来ている織物と推測している。現在岡山県津山市の倭文(しとり)地区の有志で倭文織の復元作業をしているという。
古墳調査の人は、帯などに使われたのではないかとしているが、赤人ははっきり「倭文幡(しつはた)の帯(おび)」といっている。
一般には、赤人の「倭文幡の」の訳は「和製の織物」とか「倭文の織物」と簡単に訳しているのがほとんどで、「倭文(しず)」の意味の重要性を理解していない。
絹織物の技術は仁徳天皇により導入振興されたとする説、崇神天皇だとする説があり、不明。
しかし、少なくとも赤人のイメージする真間の手児奈は、庶民ではなく高貴な人物だったといっていい。
あるいは、「葛飾の真間の手児名」を引き出すまでの枕(形容)で、とくに意味はないのかも知れない。その後の「帯解き交へて」も含めて。

≪虫麻呂、赤人について≫
◆高橋虫麻呂

高橋虫麻呂の歌の年代が明らかになっているのが少ない。これは天皇との関わりが少なかったためと思われる。虫麻呂はほとんど宇合と共に行動しているとして間違いない。
宇合は遣唐使などで忙しく、虫麻呂と知り合う機会は唐から帰国した時期。多分同じ歌人として宇合が虫麻呂を気に入り、部下にしたと考えられる。

◆山部赤人
山部赤人も経歴は全く不明。「故太政大臣藤原家の山池」を詠んだ歌があるところから、藤原家とのつながりが深いと考えられる。また律令当時、一番活躍した聖武天皇とほとんど行動を共にしていることから、聖武天皇との関わりも深いと思われる。年代的には最初は藤原家、そして聖武天皇と関わっていることから、当初、藤原光明子(不比等の三女)と親交があり、光明子は首皇子(聖武天皇)の妃となる。この流れで天皇家に入り込んだのではないだろうか。首皇子が即位し聖武天皇となった年の、聖武天皇として初めての行幸に同行していることからも、首皇子時代からの関係と推測できる。
そうしたことから、スポンサーは、虫麻呂が藤原宇合、赤人は聖武天皇だろうと考えられる。
スポンサーによって、当然歌の内容も違ってくるはずである。

◆手児奈を詠んだ時期
赤人と虫麻呂が手児奈の歌を詠んだ年代を考えたい。719年7月、虫麻呂が常陸国守の宇合に同行した翌年の作(720年頃)というのが妥当か。また、赤人は藤原不比等没から一周忌の終わった722年頃の作か。
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