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謎解き手児奈

第2号 2018年5月1日(火)
編集・発行:木ノ内博道 kino926@hotmail.co.jp
《テコとコナについて》その2
◆手子后(てごさき)神社について
伊豆長岡からスタートしたテコとコナの旅。創刊号後半では茨城県の手子后神社を紹介した。
茨城県の各地にある手子后神社は、鹿島神宮の末社であるという。「鹿島神宮伝記」によると、手子后神社は天宮社であり、手子后は大明神の妃だとしている。天宮とはどのような神なのか。ひと言でいうと「弁天」である。しかしながらそのルーツは深く、中国華南の「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の嬢(いつらめ)」である「娘馬(ノーマ)神」に行き着く、という。
 おやっと思うが、弁天が出てくる。市川の真間にも浮島弁天がある。もとは真間の手児奈霊堂そばにあったと聞いている。偶然だろうか。手児奈伝説と弁天信仰についてもいずれ考えてみたいと思う。

◆娘馬(ノーマ)神について

この娘馬(ノーマ)神についてだが、ある人はこう解説する。中国春秋時代「呉・越」の衰退とともに迫害を受けた、華南地方の水辺の民の神である。いわば賤民の神であり、その民は日本人のルーツ「倭人」である。時代は「弥生時代」。鹿島・市川・華南の伝説の内容は違っていても、共通点があると指摘する。@鹿島の手子后は恋人と「人目を避けて」逢引をしていた。A市川の手児奈は男性にモテたにも関わらず悩み苦しんだ。この2つは、何を表しているか、それは華南のノーマ同様、彼女ら(手子后)は「賤民」の神だという事である。すなわち「身分の差」である。愛してはいけない人を愛した、愛されてはいけない人から愛された、という日本人好みの伝説にされたのである。しかしながらこの神は、アマテラスや弁天などの日本の女神の基本となったのである、と。
 強引さ、また断定口調で、私としては好まないが、そうした見方があってもいいだろう。真間の手児奈のイメージは、身分の高い女性であると同時に、卑しい出の女性であるという、2つの伝説がある。
ノーマ神は蚕馬(さんば)でもある。蚕馬とは、中国の伝説のひとつで、馬の皮と融合した少女が蚕に変身してこの世に絹をもたらしたとされる伝説。蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)の別名があり、日本の「おしらさま」伝説のモデルになったともされる。
古代華南地方の海辺や台湾の水辺で祀られたノーマ神は海を辿り日本へ流れ着いた。野間、大間、近江、青海、野母、沼などの地名はその名残である。また華南のノーマにも悲劇の伝説がある。賤民の子ノーマは頼み込んで船に乗せてもらうが、途中、大しけに遭い、彼女は身を投げた。そして彼女の死体は鹿児島の野間に打ち上げられた、と言う伝説。詳しくは沢史生の『閉ざされた神々・黄泉の国の倭人伝』(彩流社)を、と勧められたがまだ読んでいない。
テコあるいはテゴ、そしてコナといった地名や神社が関東には多くあり、両者とも女性、娘を意味しているところからみて、万葉集の歌い手たちは、東国にこんな娘がいてこんな伝説がある、と紹介したのだろう。それが一人の女性の固有名詞となってしまったのではないか。東国語、いわば方言であったのでそうした誤解が生じたとも考えられる。方言であったので、テコとコナが合体してしまった。

≪万葉集に名高い手児奈≫
◆万葉集編纂の目的
 手児奈が紹介された万葉集。現在の手児奈伝説の原型は万葉集に収録された高橋虫麻呂、山部赤人の歌が発端になっている。
ところで、万葉集は単に文学作品というだけでなく、その時代の政治状況に色濃く影響を受けたのではないか、という論議がこのところ年を追うごとに高まってきている。歌そのものも、歌われた内容をそのまま信じるわけにはいかないような雲行きである。なにか、手児奈の歌にも政治状況に対しての意味が込められているのではないだろうか。
 たとえば、こんな歌がある。「塾田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひむ今は漕ぎいでな」。“塾田津で船乗をしようと月の出を待っていると、潮も船乗によくなった。さあ今はこぎ出よう(訳・土屋文明)”。船乗せんと、を舟遊びに出かけよう、と解釈する人もいるが、時代背景からすると、斎明天皇(女帝)が百済に援軍を送る時の船出の歌だという。兵の指揮のために自ら先頭に立たなければならなかった。その旅の果てで斎明天皇は亡くなっている。

◆虫麻呂、赤人の歌
 高橋虫麻呂の手児奈についての歌は、「葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈思ほゆ」。山部赤人が詠んだ歌は「我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥つ城処」「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈思ほゆ」。「思ほゆ」は思い出す、ほどの意味だろう。もう少し強く表現すれば、思い出して鎮魂する、という感じか。
 虫麻呂、赤人とも同時代の人で、時代背景から言えば藤原宇合(ふじわらのうまかい)が常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任じられている頃。
 さて、その藤原の一族の繁栄を築いたのは藤原鎌足(ふじわらのかまたり)で、大化の改新の中心人物。その母は大伴系である。大伴糠手子(おおとものぬかてこ)の娘、大伴小手子は崇峻天皇の后となっている。崇峻天皇暗殺で、小手子は京から東北まで逃げて入水自殺をする。この小手姫伝説は有名で今日にも伝わる。
 結論的には、虫麻呂、赤人が手児奈を詠み(直接小手子を詠まずに)、思いを上司にささげたのではないだろうか。入水自殺に思いをはせながら。
 残念ながら、確たる証拠はない。まだ仮説の段階である。

◆小手姫伝説とは(引用)

聖徳太子の父・用明(ようめい)天皇が崩御した後、蘇我馬子(そがのうまこ)は物部(もののべ)氏を倒し、用明天皇の弟である崇峻(すしゅん)天皇を立てました。
そこで蘇我馬子は思い通りの政治を目指しましたが、そう上手くはいきませんでした。
そこで蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺して、その妃である小手子姫(こてこひめ)を大和から追い出すように画策しました。
大和を追われた小手子姫は、父・大伴糠手(おおとものぬかて)と娘・錦代皇女(にしきてのひめみこ)と共に、奥州の果てに流された息子・蜂子皇子(はちこのみこ)を尋ね、尋ねて、川俣(現在の福島県伊達郡川俣地区)まで辿り着きました。
左右に連なる奥羽山脈・阿武隈山地が屏風のように風を和らげ、豊かな水をたたえて流れる阿武隈川のたたずまいが、故郷の大和に似ていることや、住まう人々の人情にひかれて姫はこの地に留まりました。
「この地は蚕を育てるのに良い土地でしょう」
そう言った姫は、芋ヶ作に住居を構えて、桑を植え、養蚕を始め、糸を紡ぎ、糸を繰り、機を織る手わざの数々を里人に伝授しました。
しかし、それからしばらくして、息子・蜂子皇子に会う事が出来ないことを嘆いた姫は、大清水の池に身を投げて亡くなりました。
里人は大いに嘆き悲しんで、亡骸を、この小手郷を見渡せる山の高台に埋葬し、魂を鎮めるため、池のほとりに祠をたて、小手子姫を祀りました。
姫がとうとう亡くなるまで会えなかった息子・蜂子皇子は、いみじくも山形県鶴岡市の出羽三山の開祖とされる人物ということです。
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