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謎解き手児奈

創刊号 2018年4月1日(日)
編集・発行:木ノ内博道 
kino926@hotmail.co.jp
発刊に寄せて
 最初に断っておきたいのは、私は残念ながら歴史にも文学にも素養がない、と言うこと。しかし、市川市の真間に伝わる手児奈という女性について調べてみようと思い立った。動機は単純、近くに住んでいるからだ。
調べた備忘録としてこの『謎解き手児奈』の発行を思い立った。思い違いなども多々あると思うが、ド素人ならではの大胆な仮説も許してもらえると思う。
 また志を同じくする人がいたら、研究会のような形にしていってもいいと思う。と言うより、ぜひ同志を募りたい。

《テコとコナについて》
まず古奈温泉から始めたい
 伊豆長岡に古奈という温泉がある。温泉だけでなく、古奈は長岡にある地名で、温泉の近くに古奈公民館もある。古奈温泉の開湯は古く約1300年前というが、とくに資料が残っているわけではなさそうだ。
「伊豆配流の身であった源頼朝の正室政子の生家北条氏の所領地にある温泉地として、吾妻鏡にも『伊豆國小名温泉』や『伊豆國北條小那温泉』の名が記され、当時から将軍家や公卿に用いられた湯治場」と案内にある。
古奈温泉の開湯は行基によるという。また「弘法の湯・古奈本店」と看板にある。行基、弘法と言えば真間の弘法寺を思い出してしまう。古奈温泉は子宝に恵まれるとしている。女性に関連した温泉ではないか、とも思ってしまう。真間からは遠い伊豆長岡から、ああでもないこうでもない、と手児奈伝説について考えていきたい。

神社を訪ねる
 古奈温泉から近いとは言えないが、伊豆下田に足をのばす。というのも、ぜひ伊古奈比当ス神社(いこなひめのみことじんじゃ)に行ってみたい、と思っていたからである。どちらが古いかは別として、古奈は手児奈に通じるのではないか、なにかヒントになるものが発見できるのではないか、と考えてのことである。
 下田の街に入る手前に白浜海岸がある。そこに伊古奈比当ス神社があり、伊古奈比盗_が祀られている。三嶋大神の后神とのことだ。両神とももとは三宅島阿古にあったが、孝安天皇元年に白浜に遷座したという。
 『伊古奈比当ス神社略縁起』(『神道大系』より引用)には伊古奈比盗_について「雲見の磐長姫命並に富士山に鎮座する木花開耶姫ノ命の御母神なり、この外に御子数多おはして、伊豆国十島の神々、六所の王子、十八所の神等もみなこの伊古奈比盗_の御子神等なり。(略)人代となつても、天武天皇の御代白鳳十三年十月に土佐の国の田苑五十余万頃を一夜にして没して海としたまい、その夕伊豆国西北に三百余丈の地を築出賜ひぬ」とある。どうやら伊豆の島造りの神のようだ。
 『神と自然の景観論――信仰環境を読む』(野本寛一、講談社学術文庫)によれば、「三宅島」は「御焼島」であり島の火山活動によって命名されたもの。「御焼島」がやがて「御島」となり「三島」と呼ばれるようになった、とある。伊古奈比当ス神社の例祭には火達祭があり、火山活動、荒ぶる神への献火であったろうとする。注目すべきは、野本氏がテコ、コナに言及していることだ。引用してみよう。
「伊古奈比唐ニいう女性祭神について考えておかなければならない」として――勝鹿の真間の手児奈」は『万葉集』で名高い。「手児」は東国語で「幼児・少女」の意である。しかし、「うべ児奈はわぬに恋ふなも」(3476)、「我ぬ取りつきて言ひし児奈はも」(4358)などに見られる「コナ」の方が、成人女性を示す東国語としては一般的であった。「伊古奈比刀vの「古奈」は明らかに、「女」「娘」を示す語である。伊古奈比唐フ「伊」は「斎」「忌」の意を示す接頭語で、信仰との関わりを示している。してみると、「伊古奈」とは古代東国方言で、「祭りを行う女性」という意である。つまり「古奈」に中央語の「比刀vを重ねて神名としたのであろう――
 そして野本氏は、伊豆七島の火山活動を祀り鎮める巫女たちが「伊古奈」集団だったのではないかとしている。
 私は、初めて「伊古奈」という神社を知った時に、伊豆にある古奈もしくは手児奈のことではないか、と推測した。同書では、伊豆の語源について一般には「出ずる湯」「湯出ずる国」に由来するという説、あるいは、地形上の突出を意味する「出づ」からきたという説があるが、「伊豆」は「斎つ」(神を祀るの意)とみるべきだろう、と言っている。

「手児の呼坂」とは
 ああでもないこうでもないと考えていると、静岡市と富士市に「手児の呼坂(てごのよびさか)」というところがあったので調べてみた。
「手児」というのは、「あてこ」が転じたもので、(愛しい)女子のことをいうらしい。「あてこ」に対する語が「まろこ」で、例えば、柿本人麻呂などの「麻呂」・「麿」、中世以降は「丸」になって、名前の末尾に使われるようになったという。
静岡市の北丸子に万葉歌碑が建てられている。石碑の刻文は全てひらがなであるが、一般に「東道(あづまぢ)の手児の呼坂越えて去なば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも」(巻14・3477)と読まれる歌である。意味は、東路(古代東海道)にある手児の呼坂を越えて(あの人が)旅に出れば、わたしは恋しく思うだろう、また再会できるとしても。歌碑の裏にこうある。――東道の「手児の呼坂」は往古東国への官道であった。奈良・平安の文化はこの坂を越えて伝えられたのである。万葉時代から先人は辺りに秀れた歌を遺している。江戸初期東海道が開通してからも、この坂は付近の住民に利用され続けたが、次第に「手児の呼坂」のことを知るものは少なくなった。今ここに万葉人のロマンを永く伝えんとして、坂の登り口である当地に碑を建立するものである――
富士市にある碑には「東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに」(巻14−3442)がある。

「田子の浦」は「手児の浦」か?
富士市の「手児の呼坂」は「たごのよぶさか」といい、「田子の浦」の田子も実は「手児」ではないか。山部赤人の有名な歌に「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」がある。この歌の「田子の浦」は、何々からを意味する「ゆ」が付いているので地名であることは間違いない。ちなみに赤人の歌の「田子の浦」は富士市の田子の浦ではなく、もう少し西の方と言われている。

手子后(てごさき)神社について
茨城県の各地に手子后神社(てごさきじんじゃ)がある。これは鹿島神宮の末社で「鹿島神宮伝記」によると――「本社の巽(たつみ)に当り、天宮社あり、手子后と申し、大明神の女と申す。天降る神の乙女は世にもまた、雲の通い路行(ゆき)返らむ」とある。すなわち、「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の嬢(いつらめ)」=「手子后」=「天宮」となる。鹿島の手子后の伝説は、恋人の那賀寒田之郎子(ながのさむたのいらつこ)と人目をさけて合っていたら、時間を忘れ、松になったと言う。
それでは天宮とはどのような神なのか。ひと言で言うと「弁天」である。しかしながらそのルーツは深く、中国華南の「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の嬢(いつらめ)」である「娘馬(ノーマ)神」に行き着く――
「娘馬(ノーマ)神」にも身投げ伝説があり興味深いが、その解説は次号に譲ろう。

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