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里見公園新聞(号外)

里見公園新聞 号外  発行:木ノ内博道   寄稿:関

「国府台城と総寧寺」
国府台城
 太田道灌が1478年(文明10年)下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台に仮陣を築いたのが始め。翌年、臼井城にいた下総千葉氏の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らがこの地に城を築いたとされている。
 その後戦略的な要所であったため戦いの舞台(国府台合戦等)となり整備されていった。
 徳川家康によって廃城とされたが、家康が公式に入城したのが1590年(天正18年)であり、その年に廃城となったとすると国府台城の歴史は112年ということになる。
 総寧寺が1663年(寛文3年)、関宿から徳川家綱によって国府台城跡地に移転。明治になって陸軍国府台部隊(野戦砲兵旅団司令部)、国府台衛戍病院(陸軍病院)が置かれる。陸軍の防空壕作り、里見八景園の造園、宅地開発等で現在国府台城の痕跡は全くと言っていいほど残っていない。

国府台城の記述
 里見公園新聞51号の文芸雑誌『真間』に書かれた国府台に「国府台探訪」(磯ヶ谷紫江)が紹介されている。(文芸雑誌『真間』は昭和22年7月1日に創刊)その記事の中の城内西桜陣に高一丈二尺五寸の五輪塔がある∞天守台の旧址、床几塚、石棺等がからくも残っていることは嬉しかったというのがある。昭和22年には天守台跡、床几塚が残っていたようです。
 また三遊亭円朝全集には裏手のところは桜ケ陣と申して、里見在城のおりには搦手であったというとある。裏手≠ニいうのは総寧寺の裏手のことであり、搦手(城の裏門)があった場所は桜ケ陣というのも『真間』の国府台探訪の記事と一致している。
 江戸名所図会にある「国府城址」は総寧寺よりも東、国府五郎の居城≠ニあり国府台城とは違うのではないかと思う。江戸名所図会にある「国府台、総寧寺、其の二、古戦場」に描かれている「天守台」が国府台城の天守台と思われる。
 これらの記述等から国府台城の位置を推し量ろうとする前に江戸時代の総寧寺の位置を推測しようと思う。総寧寺は1850年(嘉永3年)焼失し、1862年(文久2年)再興されたが、その時北に移動して現在の位置になっている。焼失する前の総寧寺はどこにあったのだろうか。

【総寧寺の歴史】
永徳3年(1383年)近江守国坂田郡寺倉(現・米原市寺倉)に總寧寺として建立した。
享禄3年(1530年)戦乱により焼失。遠江国掛川に常安寺として再建。常安寺は永禄年間に戦乱により焼失。
天正3年(1575年)常安寺は北条氏政によって関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)に移転。
元和3年(1617年)徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。
寛文3年(1663年)徳川家綱によって国府台に移転。
嘉永3年頃(1850年)焼失し、文久2年(1862年)再興。
江戸時代の総寧寺の位置
 江戸時代の総寧寺の位置を「江戸名所図会」「水戸佐倉道分間延絵図」「歴史的農業環境地図」「昭和22年航空写真」そして「三遊亭円朝全集」を参考に探ってみました。
 総寧寺に関しては里見公園新聞に詳しく説明があります。

 当時の総寧寺は里見公園新聞46号に取り上げられている「円朝全集」に、いきいきと表現されている。円朝の参道から大門、中門(山門)そして本堂への流れるような正確な描写は当時の光景が見えるようである。以下円朝全集から。

 「真間の根本をなだれ上がりに上がってまいると、総寧寺の大門までは幅広の道で、左右は大松の並木にして、枝を交えて薄暗きところを3町ばかりまいりますると、突き当たりが大門でございますが、ただいまはまるで様子が違いましたが、そのころは黒塗の大格子の大門の欄間は箔置きにて、安国山と筆太に彫りたる額が掛かっておりまする。*1向かって左の方に葷酒不許入山門とした戒壇石が建っておりまする。大門をはいると、*2半丁ばかりは樹木は繁茂いたして、昼さえ暗く、突き当たりに中門がございまするが、*3白塗りにて竜宮のような妙な形の中門で、右のほうはお台所から庫裏につながっており、正面は本堂で、曹洞派の禅林で、安国山総寧寺といって名高い禅寺でございます」。

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江戸名所図会(総寧寺)
*1向かって左の方に葷酒不許入山門とした戒壇石が建っておりまする。
 江戸名所図会には大門の手前に石柱が二つある。大門に近い石柱が戒壇石。戒壇石よりも小さい石柱がもしかしたら下馬石。【参考図】
※水戸佐倉道分間延絵図にはもっと離れたところに下馬碑とある。江戸名所図会は距離を若干デフォルメしたのだろうか。【参考図】

*2
半丁ばかりは樹木は繁茂いたして、昼さえ暗く、突き当たりに中門がございまする
 大門から中門(山門)まで半町ということは約55メートル。(一町 = 109.090909 メートル)

*3
白塗りにて竜宮のような妙な形の中門で
 多分円朝が見た山門はこんな門だったんだと思う。【参考写真】

 いきいきと語るような噺家円朝の文章は当時の光景が目の当たりに浮かんでくるようだ。しかし疑問点もあることをあげておく。円朝が生まれたのは天保10年(1839年)、総寧寺が焼失したのは嘉永3年頃(1850年)、円朝が11歳の時である。総寧寺の描写は間違いなく焼失前のものだが11歳の円朝が書いたとは思えない。誰かの文章を参考にした可能性がある。

 江戸時代の総寧寺の正確な位置を決めるのには「江戸名所図会」に描かれている羅漢の井と、山門の位置を参考にした。【江戸名所図会、総寧寺・古戦場】

 参道と思われる道は明治初期に出来た「農業環境地図」にはっきりと記されている。
 【農業環境地図(総寧寺参道)】

 正確には参道はどこを通っていたかは、昭和22年の航空写真でも痕跡を見つけることが出来た。現在の保育園の西側の下が昔の参道があった場所と思われる。
 【昭和22年の航空写真からの参道の痕跡】

 現在の羅漢の井へ向う里見公園沿いの道は江戸時代の道と変わっていないとして。現在の総寧寺は焼失後の再興の際に北に移動してることを考慮すると、江戸時代の山門の位置は現在の羅漢井への通り沿いで、里見公園の自転車置き場付近と考えてほぼ間違いないと思う。また、総寧寺の伽藍の形は正方形とした。
 大門は円朝によると、大門から中門(山門)まで半町ということなので約55メートル。現在の保育所付近になる。
 以上のことから江戸時代の総寧寺の位置を現在の地図に書き込むとこのようになります。
【江戸時代の総寧寺の位置】
江戸時代の総寧寺の本堂の位置は今の里見茶屋あたりだと思う。焼失後総寧寺は北に移動して再興。総寧寺焼失後の跡地に陸軍病院が出来た。

再び国府台城
 総寧寺の昔の位置がはっきりしたら江戸名所図会(総寧寺、其の二)から国府台城を探って行きたいと思う。
 小説「のぼうの城」で最近有名になった埼玉県の忍城を攻めた総大将の石田三成は丸山墓古墳に本陣を置いた。戦国時代はかなり古墳を活用してたようだ。
 国府台城も古墳を利用した城である。城は居城ではなく、江戸川沿いに走っている河岸段丘の地形と明戸古墳を活用し、土塁や堀や柵で作られている強固な城(砦)と考えていいだろう。

  文芸雑誌「真間」と円朝全集にある「城内西桜陣」「桜ケ陣」はどこなのだろうか。円朝全集では「裏手のところ」とある。国府台での小字の地名で西桜陣は里見公園あたり。裏手のところは桜ケ陣と申して、里見在城のおりには搦手であったというこのあたりに国府台城の搦め手、つまり裏門があったようだ。桜陣は部隊の集結場所として現在の里見公園あたりと見るのが妥当かもしれない。
 江戸名所図会にある「抜け穴」は真田の抜け穴を思い出すがそのたぐいではないと思う。鎌倉に北条早雲が籠った住吉城がある。自然の地形を利用し外郭が二重にあり、一番外側の外郭からトンネルがあった(住吉城は現在ほとんどその形を残していない)。国府台城の「抜け穴」は外郭から中への通路(防御を兼ねる)だったのではないか。もしかしたら搦め手門かもしれない。
 天守台の旧址、床几塚、石棺等がからくも残っていることは嬉しかった(文芸雑誌「真間」)「天守台」「床几塚」は江戸名所図会に描かれている。天守台の側に浅間神社がある(参考図)。浅間神社は富士山が眺望できる高台にあることが多いことから天守台は今の最高標高地付近にあった可能性が高い。国府台城の表門(大手門)は国府台天満宮あたりかもしれない。
 以上のことから国府台城のおおよその位置を予想した。詳細に地形や地質等を調べれば国府台城の全貌がわかるかもしれない
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