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江戸時代の総寧寺の位置を「江戸名所図会」「水戸佐倉道分間延絵図」「歴史的農業環境地図」「昭和22年航空写真」そして「三遊亭円朝全集」を参考に探ってみました。 総寧寺に関しては里見公園新聞に詳しく説明があります。 当時の総寧寺は里見公園新聞46号に取り上げられている「円朝全集」に、いきいきと表現されている。円朝の参道から大門、中門(山門)そして本堂への流れるような正確な描写は当時の光景が見えるようである。以下円朝全集から。 「真間の根本をなだれ上がりに上がってまいると、総寧寺の大門までは幅広の道で、左右は大松の並木にして、枝を交えて薄暗きところを3町ばかりまいりますると、突き当たりが大門でございますが、ただいまはまるで様子が違いましたが、そのころは黒塗の大格子の大門の欄間は箔置きにて、安国山と筆太に彫りたる額が掛かっておりまする。*1向かって左の方に葷酒不許入山門とした戒壇石が建っておりまする。大門をはいると、*2半丁ばかりは樹木は繁茂いたして、昼さえ暗く、突き当たりに中門がございまするが、*3白塗りにて竜宮のような妙な形の中門で、右のほうはお台所から庫裏につながっており、正面は本堂で、曹洞派の禅林で、安国山総寧寺といって名高い禅寺でございます」。
いきいきと語るような噺家円朝の文章は当時の光景が目の当たりに浮かんでくるようだ。しかし疑問点もあることをあげておく。円朝が生まれたのは天保10年(1839年)、総寧寺が焼失したのは嘉永3年頃(1850年)、円朝が11歳の時である。総寧寺の描写は間違いなく焼失前のものだが11歳の円朝が書いたとは思えない。誰かの文章を参考にした可能性がある。 江戸時代の総寧寺の正確な位置を決めるのには「江戸名所図会」に描かれている羅漢の井と、山門の位置を参考にした。【江戸名所図会、総寧寺・古戦場】 参道と思われる道は明治初期に出来た「農業環境地図」にはっきりと記されている。 【農業環境地図(総寧寺参道)】 正確には参道はどこを通っていたかは、昭和22年の航空写真でも痕跡を見つけることが出来た。現在の保育園の西側の下が昔の参道があった場所と思われる。 【昭和22年の航空写真からの参道の痕跡】 現在の羅漢の井へ向う里見公園沿いの道は江戸時代の道と変わっていないとして。現在の総寧寺は焼失後の再興の際に北に移動してることを考慮すると、江戸時代の山門の位置は現在の羅漢井への通り沿いで、里見公園の自転車置き場付近と考えてほぼ間違いないと思う。また、総寧寺の伽藍の形は正方形とした。 大門は円朝によると、大門から中門(山門)まで半町ということなので約55メートル。現在の保育所付近になる。 以上のことから江戸時代の総寧寺の位置を現在の地図に書き込むとこのようになります。
◆再び国府台城 総寧寺の昔の位置がはっきりしたら江戸名所図会(総寧寺、其の二)から国府台城を探って行きたいと思う。 小説「のぼうの城」で最近有名になった埼玉県の忍城を攻めた総大将の石田三成は丸山墓古墳に本陣を置いた。戦国時代はかなり古墳を活用してたようだ。 国府台城も古墳を利用した城である。城は居城ではなく、江戸川沿いに走っている河岸段丘の地形と明戸古墳を活用し、土塁や堀や柵で作られている強固な城(砦)と考えていいだろう。 文芸雑誌「真間」と円朝全集にある「城内西桜陣」「桜ケ陣」はどこなのだろうか。円朝全集では「裏手のところ」とある。国府台での小字の地名で西桜陣は里見公園あたり。裏手のところは桜ケ陣と申して、里見在城のおりには搦手であったというこのあたりに国府台城の搦め手、つまり裏門があったようだ。桜陣は部隊の集結場所として現在の里見公園あたりと見るのが妥当かもしれない。 江戸名所図会にある「抜け穴」は真田の抜け穴を思い出すがそのたぐいではないと思う。鎌倉に北条早雲が籠った住吉城がある。自然の地形を利用し外郭が二重にあり、一番外側の外郭からトンネルがあった(住吉城は現在ほとんどその形を残していない)。国府台城の「抜け穴」は外郭から中への通路(防御を兼ねる)だったのではないか。もしかしたら搦め手門かもしれない。 天守台の旧址、床几塚、石棺等がからくも残っていることは嬉しかった(文芸雑誌「真間」)「天守台」「床几塚」は江戸名所図会に描かれている。天守台の側に浅間神社がある(参考図)。浅間神社は富士山が眺望できる高台にあることが多いことから天守台は今の最高標高地付近にあった可能性が高い。国府台城の表門(大手門)は国府台天満宮あたりかもしれない。 以上のことから国府台城のおおよその位置を予想した。詳細に地形や地質等を調べれば国府台城の全貌がわかるかもしれない |
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