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里見公園新聞

里見公園新聞 第79号 2012年1月6日  発行:木ノ内博道

江戸川の清流と国府台
江戸川の清流と国府台
パンフレット「昭和29年のいちかわ」
 昭和29年に作成された市川のパンフレットを見つけた。作ったのは市川市役所と市川市観光協会。当時の国府台、里見公園周辺の記述を紹介しよう。
<江戸川の清流と国府台>
 古く日本書記に、日本武尊東夷征伐の折、この地を通り大川を渡ろうとしたが深浅が分からず渡り兼ねていると一羽の鴻の鳥が飛んで来、下矢喰向いの浅瀬を越え示した。尊は無事この大川を越えることが出来、嬉んだ尊は「汝にこの山を取らすべし、今より永くこの山を住家とせよ」と、以来多くの鴻の鳥がここに住むようになった。古くは高野台、小府台、鴻代、鴻之台と書した。往古国府が置かれたころ、頼朝興隆の地、里見北条合戦の地。又は鴻之台城址として史上有名なところである。
夜泣石
夜泣石
<夜泣石>
 天文7年下総小弓城の里見軍は、小田原の北条氏綱の軍を迎えてこの地で戦い、里見方は多くの戦死将卒を出した。一方の大将里見弘次もこの戦争で戦死、この里見弘次に一人の美しい姫があり、気立てもやさしく親思いで孝行な姫があった。父の死を聞いた姫のなげきは非常なもので、父を恋い傍の石に身を寄せて泣き続け、夜となく昼となく泣きに泣いたまま息が絶え、以来姫が抱きついて死んだ石から夜になると悲しい泣き声が聞えたという。

勝海舟と国府台
 市川市についてウキペディアによると、「幕末、国府台地区は勝海舟によって国会議事堂の選定地として考慮にいれられたこともある」と書いてある。本当だろうか。
 市川図書館のレファレンス・サービスに立ち寄って相談したら、幸いに勝海舟の全集があった。とても面白く読んだが、国府台に国会議事堂の一件は載っていない。市川市の歴史博物館に問い合わせてくれたが知らないと言う。国会図書館にも問い合わせてくれたが、幾つかの目録を調べてくれ、結論は「上記の目録を通覧した限りでは、勝海舟が国会議事堂について言及したと思われる資料は見当たりませんでした」とのこと。
 その他、ウキペディアには「また、1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米ニ通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった」とある。
 用地買収は現実になされたが、大学校は作られなかった。
「水がないので」、あるいは「不便だから」、ある本によれば「農民の反対によって」と理由はさまざまだが、理由が幾つもあると言うことは、もっと隠された理由が他にあったと考えたくなる。
 勝海舟と国府台に国会議事堂の件、誰か有力な情報があったらぜひ教えていただきたいものだ。
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