目次へ (千葉県市川市)里見公園新聞
里見公園新聞

里見公園新聞 第74号 2011年11月30日  発行:木ノ内博道

遊園地事業
 前号に続いて、田中さんの修士論文『市川市国府台』から、遊園地事業について紹介しよう。
 ――現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地があった。現代で遊園地というと、「東京ディズニーランド」のようなテーマパークを思い浮かべてしまうが、当時の遊園地は庭園や池泉、演芸場、茶店、動物小屋、見世物小屋等を主とする娯楽施設であった。
 以下では、八景園について`島正次氏へのインタビューを基にまとめている。
 八景園の開園年に関しての詳細は不明であるが、八景園の創設者の子息である`島氏によると、1922(大正11)年には既に開園していたという。しかし『角川日本地名大辞典12 千葉県』によると、開園は1923年とあり、もう一人の創設者である佐々木浅次郎氏の子息へのインタビューにより書かれた、『City Voice 1993年10月号』では、1923年に着工、1924年開園であったとあり、明確な開業年を知ることができない。他方、閉園年は『角川日本地名大辞典12 千葉県』では1938年(昭和13)年に廃止されたとあるが、`島氏の証言と『City Voice 1993年10月号』では1933年とあるため、1933年の方が正確であると思われる。
 創設者の二人は、東京でトタンやブリキを扱う問屋を営んでいた`島氏と、メッキ加工業を営んでいた佐々木氏であるが、「東洋一の遊園地」を目指して1918(大正7)年頃から八景園の構想が練られ始めたという。
 八景園内には、次のような施設があったという。子ども用の遊具として大丸太渡しや大滑り台があり、プールや動物小屋、音楽堂、演芸舞台等が設けられていた。また、創業と同時に千本の桜を植樹し、春には花見客で大変賑わったという。他にも、江戸川へ入り口を向けた料理旅館「鴻月」を造り、東京方面の客が江戸川から直接やってこられるよう、「栗市の渡し」を設けるなどした。この渡しは対岸の現在の江戸川小岩地域から、鴻月側の船着場を結ぶものであったが、柴又帝釈天までを希望する客へは、帝釈天まで送迎するサービスも行っていた。
 園内の施設・設備は、`島氏の父親と佐々木氏と共同で造成されたものもあったが、各々が分担して造ったものもあった。共同で造成したものにはプールや動物小屋、音楽堂があり、佐々木氏によるものは中の茶屋と演芸場等であった。`島氏の父親によるものには、鴻月や栗市の渡しの他に、さつき園と土橋亭と大観亭、富士見亭という茶屋と桟敷であった。


『波』山本有三著・岩波文庫
山本有三の『波』を読んだ
 『波』(山本有三著、岩波文庫)を読んでいたら、里見公園が出てきた。
 ――間もなく汽車は市川に着いた。まづ手児奈の堂に参詣し、それから弘法寺、練兵場、総寧寺を過ぎて、国府台の里見公園に出た。老松の幹を透いて、眼の下を江戸川がゆったりと流れていた。両岸に密生している蘆は新竹の色のように、晴々した緑に輝いていた。そのために河の水は鉛色にくすんで見えた。(P73)
                    
 このあと、公園下の栗市の渡しに出て、先生と子どもたちが、繋いである筏にのって遊んでいるうちに綱が解けて人をのせたまま筏が流れ出してしまう。
 大事には至らないが、里見公園に詳しい私たちには、これはあの湯島から遠足に来て事故にあった、そして三体地蔵の話が題材になっているのではないか、とピンとくる。
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