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(千葉県市川市)里見公園新聞  31号 32号 33号 34号 35号
里見公園新聞

第31号 2007年12月16日(日) 発行:木ノ内博道


里見公園の病院跡地部分
◆国府台病院の歴史
 国立国府台病院は現在のところに移転する前は里見公園のなかにあった。というより、病院の跡地に里見公園ができた、というべきか。
 そこで、国府台病院の前身を調べてみた。手許に『解説 陸軍国府台部隊』(高橋功著・自費出版・発行日:平成17年11月)があるので、病院に関する部分を紹介する。
 まず国府台に陸軍教導団が移設されたのが明治18年。大学を作るために用地買収した土地を転用した。そして現在の里見公園の所に、明治32年に陸軍教導団病院ができる。
 明治32年に教導団は廃止されるが、これに伴って教導団病院は「国府台衛戍(えいじゅ)病院」と改称され、国府台地区の各部隊のための病院となった。当時、部隊の駐屯地のことを衛戍地といい、部隊に付属する病院を衛戍病院といった。国府台衛戍病院は、明治32年の設立当時は3等の衛戍病院だったが、明治40年に2等衛戍病院に昇格している。
 衛戍病院という名称はながく続くが、昭和11年に国府台陸軍病院と名称変更する。昭和13年3月に陸軍病院は現在の所(西練兵場の一郭)に新築移転する。里見公園内にあった教導団時代からの病院も里見病室として精神病患者の病室に利用され、窓には鉄格子がつけられていたという。
 昭和14年6月5日の「創立55周年記念式典」には病院の人員が記載されている。
  ・将校50名
  ・下士官90名
  ・兵500名
  ・雇人150名
  ・入院患者1500名
 大きな病院になっているが、これは昭和12年の支那事変直後、精神病などの入院患者が特に多くなり、山梨県に転地療養所も開設された、とある。
 病院歌が記載されているので紹介しよう(1番4番のみ)。
1.綾にかしこき大君の
  います都に程近く
  豊に流れを江戸川の
  川面に影を映しつつ
  建てり病院国府台
4.白衣に包む細き手に
  血よりも赤き真心を
  こめて看護に己が身の
  青春を忘れた早乙女
  姿ゆかしき国府台

 第二次世界大戦末期になると国力は低下し、本土決戦準備として、薬剤の確保、野菜の育成、薪炭の確保、さらには牛や豚、鶏、兎などの飼育まで始めたという。
 そして、終戦によって昭和20年12月1日、国府台陸軍病院は厚生省所管となり、「国立国府台病院」と名称を変更し今日に至っている。
 この病院の後ろに、大正11年から昭和8年まで、里見公園八景園があった。当時はまだ精神病院ではなく本院があった。

里見公園新聞

第32号 2007年12月23日(日) 発行:木ノ内博道


坂の途中にある「陸軍」と書いた石杭
◆続・国府台病院の歴史
 『市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録』(武井順一著、97年1月発行)という本を読んだ。1ページ目にこうある。
「1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、市川の砲兵隊の幕開けとなった。歩兵大隊が移転、病院が現在の里見公園内に新設された。(略)教導団が来たので、市川~松戸間に広い道が必要となり、この頃、千葉町から囚人達をつれてきて道路建設に従事させた。これが現在、旅団坂といって和洋女子大学前へ通じる坂の道で、松戸へ抜ける新道(松戸街道)である。従来の道は巾がせまく、筑波大学付属ろう学校内を通り、市川一中をぬけ、東京医科歯科大学の裏門にで、理髪店の間のまがりくねった道が松戸にぬけていた。戦国時代、国府台の合戦で、小田原の北条軍と対戦した里見軍は、この道を通って松戸に敗走した。現在も「東桜陣」や「西桜陣」と言った地名が残っており、里見軍が陣をしいた場所である」。
 国府台一帯の歴史をほうふつとさせる文章である。23ページには里見公園内の神経症患者の病室について触れている。
 「国府台に陸軍の教導団が東京から移転してきた時、教導団の病院として新設されたのが里見公園内だった。昭和10年代に、道ぞいに病院が新築されたので、ここは病室として利用された。戦場に出陣して神経症となったり、ヒコーキの搭乗員の中には神経症となる人が出てくる。そういった患者を収容したのが、ここの病室である。正門を入った所に病棟があり、窓は鉄格子となっていた。昭和34年ごろ病室は里見公園にかわったが、土地を整備した時、井戸や建物の基礎が出ている。里見公園の高台になっている所は、地下にトンネルがあった。このトンネルは陸軍の飛行隊が帝都防空の本部として掘ったものである。(略)戦後トンネルは埋められて今は何も残っていない」。
 ヒコーキの搭乗員には神経症になる人がいた、とはどういうことだろうか。戦地でどんな体験をした人がここにやってきたのか、そんな記録はないものだろうか。
 また、国府台4丁目の高射砲の台座跡についても触れている(24ページ)。
 「里見公園の裏門を出て約500メートル歩くと、下り坂があって江戸川ぞいの道と合流する。坂を下る手前左の台地に、台座跡が残されている。陸軍の用地を示す石柱が一本ある。高さ1メートル位で左側にあり、左をみると白い柵が輪になっている。この柵の中に高射砲がすえつけられていた。ここの高射砲は使われたことはなかった。見張り所跡かも知れない」とある。
 前から気になっていたのだが、千葉県江戸川下水道事務所のところ(国府台3丁目13番地)の急な坂のところに「陸軍」と書いた石杭があって、それのことだろうか。境界の石かと思っていたのだが、江戸川や東京が一望できる場所なので、高射砲を置いたり見張りをするにはよい場所である。

里見公園新聞

第33号 2007年12月30日(日) 発行:木ノ内博道

◆松のことからの連想
 先日、本八幡の方に行った時、松林の公園の前を通った。松葉が敷きつめられていて、プンと松の匂いがした。いい匂いだと感じた。子どもの頃、ご飯は松葉で炊いたものだ。煙に涙しながら。
 それから、大きな松の木の幹は龍のウロコ(見たことはないが)みたいで、木のうねり具合とあわせて、松は龍のようだ。
 で、思ったのだが、里見公園に松を植えてはどうだろう。江戸川沿いに松の木のある景観を取り戻したい。新・鐘掛けの松、新・物見の松なんてのもいい。すぐに大木にはならないが、大木になるのを待つのも楽しいだろう。
 そんなことを思っているうちに、里見公園に憩いのスペースがほしいとも考えた。犬の散歩途中に立ち寄れる喫茶店。その喫茶店には里見公園周辺の歴史がわかるギャラリーがあってもいい。
 前号で触れた石井床屋から入る小道は、むかし里見軍が戦いに行き来した道である。歴史の道として再現し案内を出してはどうだろう。里見城の史跡などを解説しながら。ちょうどこの道は国府台緑地へと続く道だし。そういう再現の一環として羅漢の井も整備してほしいものだ。
 文化の街「市川」としては、歴史の香り立つ街でもあってほしいものだ。


京成国府台駅前の看板

◆根本商店街について
 前号で紹介した『市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録』には京成国府台のあたりの根本商店街について触れている。里見公園と直接は関係がないが、当時のこの一帯を知るには興味深い文章である。
 <市川市は軍隊がきて発展した町である。その中心が根本商店街である。「根本」とは、根の本であり、一番はじめを意味している。根本商店街には軍に物資を納入する店があり、兵を相手とする店があった。小林トーフ店、秋元八百屋、宇田川薪炭店などは軍に納入した店である。常盤湯の裏側に、2~3軒飲み屋があり、兵を相手とする女達がいた。「モンパリー」という店もあった。ぜんざい屋も2軒位あった。
 根本商店街をぬけると市川広小路につきあたり、役場・郵便局・警察署が千葉街道にそってあった。市川小学校のそばに憲兵隊の建物があり、馬が飼われていた。
 常に2千~3千の兵がいた国府台は、敗戦に伴い兵がいなくなり、根本商店街はさびれた。市役所は八幡に、警察署は三本松に、郵便局は平田1丁目に移転した。現在、繁華街は市川駅前や本八幡駅前に移っている。>
※     ※
 当時は京成線をくぐるバイパスはできておらず、根本商店街を通って広小路にでる。この辺には最近まで旅館もあった。
 石井床屋の叔父さんの植草さんは、小学生の頃、真間小学校に通った頃の思い出を以前話してくれた。まだ国府台小学校はなく、真間小学校に通学していたのだが、坂を下ったところの和菓子店「島村」でアンコをもらって舐めたと話していた。

里見公園新聞

第34号 2007年1月6日(日) 発行:木ノ内博道


富浦の里見公園・なにもない荒れた広場
◆富浦の里見公園に行ってみた
 正月2日に館山方面に行く機会があった。富浦にも里見公園があると聞いていたので寄ってみることにした。
 JR富浦駅に車をとめて、駅員に場所をたずねると観光地図を見せて教えてくれたが「行っても何もないですよ」ということだった。そうは言っても、岡本城址でもある。なにかあるだろうと思って行ってみた。
 通りに案内板が出ていたので横道に入ると、びわなどの集荷所があって、奥の隧道の手前に細い階段状になった道が山の上へと伸びている。息を切らしながら頂上にたどり着くと、そこは怖いほど荒れていた。立ち枯れた木、ベンチも朽ち果てていた。ここが城址? ここが公園? と疑いたくなる。駅員が言うように何もない。ひどすぎる。
 それにしても、観光地図には「南総里見氏」と必ず“南総”がつく。南総里見八犬伝の影響だろうか、と思ってしまう。南総里見八犬伝を観光資源として活用するのはいいとして、史実に関するものには里見家とするのがいいと思うが。

◆3人地蔵
 お年寄りに里見公園のことを聞くと「昔、公園の下に3体のお地蔵さまがあった」という話になる。今は国分寺境内に移されているが、この3人地蔵について紹介しよう。
 里見公園は近隣の人だけでなく遠方の子どもたちがハイキングに来たりする。
 『改訂版 市川の歴史』(市川よみうり新聞社)の205Pにこうある。
「のどかな田園風景のひろがる市川には春ともなると真間山や国府台に、京成電車を利用した東京方面の人々が花見にでかけてきました。大正2年5月はじめ、湯島の小学校の生徒が里見公園で休んだあと公園下の栗市の渡しで舟にのり川の中ほどで1人の生徒が魚でも見つけたのか大声を出し、子供たちがいっせいに片方に寄ったため、舟が転覆し、増水していた流れへ投げ出されました。江戸川にはたくさんの舟が行き来していましたからすぐに子供たちは助けあげられました。しかし、3人の生徒の姿がなく翌日1人、1週間後に1人、1ヶ月後に1人の遺体が見つかりました。寺や町の有志の人々は3人の子の両親と相談して3体の地蔵尊を栗市の渡しに近い江戸川の清流の見えるところにまつりました」。
 この文章からいろいろなことが分かる。里見公園の下には栗市の渡しがあったこと、江戸川には多くの舟が行き来していたこと、もちろん事故で亡くなった子どもたちに対する当時の人たちのあたたかな心持ち。

◆富士が大きく見えた
 1月6日の夕方、自転車で江戸川の土手を通ったら、カメラをもった人たちが数人、熱心に写真を撮っていた。正月のせいか、東京方面の空はきれいに澄んで、富士が大きくくっきり見えた。そして、少しずれて日没近い太陽。まもなくダイヤモンドフジを見ることができることだろう。

里見公園新聞

第35号 2008年1月13日(日) 発行:木ノ内博道


下総国分時の三体地蔵尊

江戸川三体地蔵尊由来碑
◆続・3人地蔵
 『市川の伝承民話』(市川市教育委員会発行 調査・編集「市川民話の会」 昭和57年3月31日)に、3人地蔵の話が載っている。
──(里見公園の下に、あどけない顔をした3体のお地蔵さんがある。これは大正2年5月、湯島から遠足に来た小学生が、江戸川で舟が転覆したため水死した3人の霊を慰めるためのものであるが、その事故の模様は)
 「船頭さんは知っていましたよ。渡しをやっていたおじさんがいたんで。
 結局定員以上乗せて、定員以上でも大丈夫だったんだけど、ボラが1匹跳び上がってね。それで、舟のところに来たら、皆、ワーッと、そっちの方へ見に行ってね。だから、ボラ一本で、あれだけの事故になったって。
 助けきれなかったんですね。いっぺんに片方に寄ったんでね。いくら船頭が怒鳴っても、子どもだから分からないわけです。ボラってえのは、舟縁なんかにぶつかって、ピョンと上がるわけです。それほど魚もたくさんいたわけですが」(話・富川初太郎 記録・阿彦周宣)

◆下総国分寺の三体地蔵尊由来
 里見公園下にあったお地蔵さんを見に下総国分寺を訪ねた。一角に3人のお地蔵さんがあり、花が供えられていた。
 お地蔵さんのそばに「江戸川三体地蔵尊由来碑」があり次のように書かれてあった。
――当地蔵尊は 大正6年5月6日東京湯島小学校生徒が国府台里見公園来遊の帰途 同公園下の栗市の渡舟場より小岩側に渡らんとして 小舟に多数搭乗せしため遂に顚覆し 竹内拡君外2名の生徒が溺死せり その菩提を弔わんがために 当山先位永弘和尚が発願主となり 道俗の信施を仰ぎ 地蔵尊を造顕し 大正14年12月4日 里見公園下川外の地をトして地蔵尊建主の地となし 東京都江戸川区小岩田の島村徳次郎殿より敷地の寄進を受け同所に建立奉祀し今日に到りしところ 江戸川河川改修工事のため 今回当山境内に移建し奉るものなり。   昭和54年8月1日 国分山主 吉澤恒信誌
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