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(千葉県市川市)里見公園新聞  16号 17号 18号 19号 20号
里見公園新聞

里見公園新聞 第16号 2007年9月2日(日) 発行:木ノ内博道


広重 江戸風景より「鴻の台とね川」
■ちょっと寄り道
 この季節、梨がうまい。市川は梨の産地である。市川に梨をもたらしたのは川上善六という人で、寛保2年(1742)八幡生まれの人。それまで市川の土地は穀物の栽培には向かず、菜物しかできないために生活は貧しかったという。市川の偉人となり、大正4年「川上翁遺徳碑」が建てられた。今、中央公民館北川に置かれている。
 菜物しかできないとはいえ、江戸100万人の食卓に供給する貴重な野菜。ところで野菜を栽培するには肥料がいる。船を利用して江戸の街から汲み取りをする仕組みが発達した。この船を葛西船と呼ぶ。葛西権四郎という人が始めたことによるという。
毎日江戸城に2隻の船を出して運んだ。本丸長局の汲み取りには添番と伊賀者が立ち会ったと言うからものものしい。
 下肥が商品として扱われるようになると、売り手である家主たちは少しでも高く売りたくなる。商人は高く買っても農民に高く売ればいいわけで、その分野菜が高くなる。しかしそうそう野菜を高くすることもできず、何度か下肥値下げに関する嘆願書が出され、町奉行所も頭を痛めた。
 同じ糞尿でも大名屋敷・武家屋敷・富裕な商家から出るものは上級品、一般町屋のものは中級品、俗にたれこみという大便が少なく小便の多いものは下級品と、品質によって等級に分けられていた。
 業者のなかには、輸送途中に濃厚なものには川の水を汲みいれて薄め、増量していた者もいて、ほぼ常識として行われていたという。
 江戸のエコシステムに感心するが、下肥を商品として扱うなかで、人々の欲があらわれて面白い。
 ちなみにこの葛西船は昭和20年代まで続く。私も水戸で生まれて、親父は百姓をしていたので、リヤカーで街まで下肥を汲むのに同行したことがある。小学校に上がる前のことだ。1回目に行った時は親父がお金を払うのを見た記憶がある。2回目の時には払わなかった。昭和30年ごろ、需給の関係が変わったのだと思う。(葛西船については『市川物語』綿貫喜郎著・を資料とした)

■里見八景園の閉園理由
 5号で、里見八景園の閉鎖はどうしてだろうと書いた。この『市川物語』によれば、閉鎖の理由については「昭和13年、帝都防衛の目的から国府台に高射砲陣地が構築されることになり」とある。閉鎖したのは昭和8年なので、どうもつじつまが合わない。

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里見公園新聞 第17号 2007年9月9日(日) 発行:木ノ内博道


国府台断崖之図(江戸名所図会)
■羅漢の井・もうひとつの縁起
 「羅漢の井」縁起については弘法大師伝説が有名だが、『市川物語』ではもう一つ総寧寺移転による縁起説を紹介している。
 里見公園に隣接する総寧寺は寛文3年(1663)徳川4代将軍家綱のとき関宿から移されたもの。総寧寺の草創は古く永徳3年(1383)にさかのぼる。関宿は洪水の多い土地で、寺社奉行に上訴して国府台に移転した。僧侶だけで300余人もいた。台地のために飲み水が不足する。そこで祖峯禅師は十六羅漢に祈願して羅漢供養をしたところ、甘泉が湧きだしたという。
 ところで、当時の国府台の情景がすごい。――古書によると「寺中には山林も竹林もなし、大門に今ある道灌榎2本のみあり、故に万里みえ渡りて草茫々たり、枯骨所々にるいるいとして至る人稀なり、真に飛鳥飛鳥たらず、毛ものして群を失う古戦場なり。それのみならず、雨天の節は魂魄叫びて悪風砂石を雨降らす。夜深更に及んでは亡卒集まって猛火をたき、刀杖弓箭の音止む事なし」。
 厳しい残暑のなかでこれを紹介いるが、近所に住む者として、あるいは当時はその境内だったところに住む者としては、少し涼しさを感じる文章である。これが里見公園あたりの江戸時代初期の景色なのだ。

■高台と低地
 誰だったか、国府台と江戸川の地形は上野と不忍池に似ていると言った人がいた。そう指摘されて、高台と低地というテーマで東京論を書いた中沢新一の『アースダイバー』(講談社)を思いだした。一神教の世界ではこの世界は神に似せて作られるが、アメリカ先住民や環太平洋に生きてきた人(多神教)は、生き物が水中にもぐって泥をとってきて陸をつくる=アースダイバーによって世界を創造する神話が多い。
 中沢新一は縄文時代の東京の地図をつくって、それを頼りに東京を散歩する。そうして書いたのが『アースダイバー』だ。付録のその地図をみると、上野の高台から国府台・松戸(下総台地)までの間は当時海だった。
中沢新一にならって、たとえば国府台と小岩を取り上げることができるかも知れない。
 ところで、思いだしたが、国府台に明治神宮を作ろうとした話はこの本に紹介されている。P74に、明治天皇が崩御されたときに神社奉祀調査会(大正2年)は候補地として青山、代々木、戸山、小石川植物園、白金、和田堀村、御嶽山、富士山、筑波山、箱根山などとともに国府台をあげている。最終的には豊多摩郡代々幡村代々木にあった代々木御料地に決まるのだが。国府台に明治神宮ができた可能性もあるわけだ。
 可能性だけでいうなら、国府台一帯は、昭和15年に開かれる予定だった東京オリンピックの会場予定地でもあったらしい。皇紀2600年にオリンピックが開かれる予定だった。このタイミングで誘致できたのはヒトラーが動いたからだという説がある。

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里見公園新聞 第18号 2007年9月16日(日) 発行:木ノ内博道

■続・高台と低地
 中沢新一が『アースダイバー』で展開している新宿論では、乾いた高台を甲州街道や青梅街道が走り、紀伊国屋や伊勢丹が立ち並ぶ。この台地から外れると新宿はすぐ湿地帯に入り込んでしまう。湿地帯は水や蛇や女性のエロティシズムと結びつく。
 歌舞伎町がそうだ。新宿に歌舞伎座を誘致しようとして、町名も歌舞伎町とするが芸能はもともと湿地帯から乾いた所に出ていこうとするもので、うまくはいかない。売られる商品も高台は乾いたものが売られ、低地では湿ったものが売られる。資本主義にもこの二面性があると中沢は指摘する。
 国府台の高台と小岩。あるいは国府台と真間ではどうなのだろう。国府台は戦場や軍隊といった男性的で硬い感じがするが、真間はひらがな文学の柔らかい感じがする。国府台を中心に、アースダイバー的なテーマを追いかけていくのも面白そうだ。


じゅん菜公園そばの「姫宮」の祠

■じゅん菜池と里見公園
 昔、武蔵野台地と下総台地の間は遠浅の海だった。3000年くらい前から東京湾が後退していって、京成電鉄が通っているあたりがその砂洲の上。そしてJR総武線がおよそ2000年前の海岸線を走っているという。
 で、じゅん菜池あたりは清水が湧きだして真間の方に流れており、古くは国分沼と言われていた。じゅん菜池緑地が公園として開園したのは昭和54年。里見公園の桜の開花に先駆けるよう梅を植えた。里見公園・総寧寺の夜泣き石伝説についてはまだ本紙では取り上げていないが、同様の話がじゅん菜池公園にもある。姫宮という祠があるが、昔、国府台の合戦で敗れた里見軍の姫達がこの沼に入水して死んだのを村の人たちが哀れんで、霊を慰めるために祀ったという。
 しかし江戸時代にくまなく地域を紹介した『江戸名所図会』には載っていない。ところが近くの「鏡石」が紹介されている。「鏡石」は「要石」とも言われて、どうやら「姫宮」と対をなす「男宮」なのではないか、といわれている。石の根は地中深く入っており、男根を祀ったもの。稲作が始まって、豊穣を祈願する祀り事の名残ではないかという説がある。(資料:「じゅんさい池 今とむかし」より)
 江戸川の大きく曲がる所がL字=曲尺(カネジャク)に似ているところからカネが淵が派生し、同音の鐘が淵と呼ばれるようになり、鐘掛けの松の伝説が生まれたように、伝説は生成し変化するようだ。姫宮についても、稲作の豊穣を祈る祠が、夜泣き石伝説などに影響されて新しい伝説が生まれたのだろう。
 ところで里見公園に八景園ができたころ(大正末期)、じゅん菜池には農家がお金を出し合って養魚場と釣堀ができた。しかし、旱魃にあい「魚のつかみ取り」を最後に、数年で釣堀を閉鎖したという。それにしても、大正末期には瞬間的に楽しい時代があったらしい。

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里見公園新聞 第19号 2007年9月23日(日) 発行:木ノ内博道

■中学生の見た里見公園
 娘が中学校(国府台一中)の校内誌『里の葉』(第54号)をもってきた。なかに中1の小嶋初名太君という男子生徒が里見公園について書いていた。本人に了解をもらって転載することにした。
 なお、この作文は「成田山『智光』作文コンクール」で受賞している。

「僕の街のよい所」
小嶋初名太
 僕は、千葉県の市川市という所に住んでいる。僕の住んでいる市川市は南北に細長い形をしており、地形的に大きく二つに分けられる。海に近い南部の行徳地区と、高台にある北部の市川地区だ。僕は江戸川に近い市川の北西部に住んでいる。
 市川の北西部には畑や梨畑が広がっており、緑がとても多い。じゅん菜池緑地という水辺の公園や、小塚山公園や里見公園という、雑木林の残る大きな公園もある。
 特に里見公園は、僕が通っていた保育園や学童保育所のすぐ隣にあったので、思い出がとても多い。コイのいる池があり、よくのぞきこんだ。ザリガニもいたのでスルメイカをえさにして釣って遊んだ。林には虫がいて、夜にはカブトムシが出てきたりする。ブランコやジャングルジムなどの遊具で遊んだり、坂をかけ下りたり、広場でボール遊びをしたり、自分達の庭にようにかけ回って遊んだ。
 里見公園は桜の木がたくさんあるので、春には大勢の人が花見にやってくる。初夏になると、藤の花やバラが咲く。夏には木陰で涼みにくる人達も多く、一年を通して市民のいこいの場になっている。
 また里見公園からのながめがとてもよく、江戸川をこえて東京方面をながめると、家並のむこうに新宿のビル群や東京タワーかなと僕が勝手に思っている建物が見える。雲一つない快晴の時は、日本を代表する山、富士山も見える。夕方になると夕日が本当にきれいに見え、すがすがしい気持ちになる。夕焼けの中に浮かびあがる富士山のシルエットは、とてもきれいで、ずっとながめていたいと思う。
 僕のとっておきの風景は、京成電車の窓から見える国府台の風景だ。東京から市川に向かってくると、江戸川にさしかかった時、それまで家並が続いていた風景が一瞬のうちに「パッ」とひらける。江戸川に夕日の光が反射してキラキラ光り、若草色の河川敷がどこまでも続いていて、大きく広がった空が見える。そして、深みがかった緑が続く国府台の森。隅田川や荒川も水が豊かな大きな川だが車窓からの風景は、堤防が高かったり、高速道路があって空がせまく、視界もせまい。それにどちらの川にも緑がない。だから、東京から帰ってきて、江戸川と国府台の森を見ると、「あっ、市川に帰ってきたんだな」と思える。
 僕は、こんな緑豊かで、景色のいい市川が大好きだし、ずっと市川で暮らしたいと思う。また、市内や市外の人とはいわず、全国の人にもこの美しい自然ときれいな風景を知ってもらいたい。大人になって、もし、市川を離れることがあったとしても、この自然豊かな風景を一生忘れないだろう。

■一中読書会の通信から
 国府台一中読書会の通信(07.4.9.)を見ていたら、夏目漱石の『我輩は猫である』が取り上げられていて、「鴻の台の首懸けの松」の話が載っていると書いてあった。次号ではその話を紹介しよう。

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里見公園新聞 第20号 2007年9月30日(日) 発行:木ノ内博道


「漱石八態」紙本墨  提供:川崎市岡本太郎美術館
■『我輩は猫である』の松の話
 国府台一中の読書会の通信に、夏目漱石の『我輩は猫である』が紹介されていた。「はじめから8分の1くらいのところに鴻の台の首懸けの松」が紹介されているが、その後で「鐘掛けの松」と言い直されている。市川の郷土史家の方に聞いても、そんな松は聞いたことがないとおっしゃっていたので“たぶん鴻の台ちがい”かと思う、とか。
 本紙読者ならもう説明するまでもないが、「鐘掛けの松」は鐘が淵の近くにあった松のことである。その松から鐘が落ちて淵に沈んだ。今でも沈んでいると『江戸名所図会』にある。これは8号で紹介した。
さて『我輩は猫である』から少しだけ引用しよう。
――「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸けの松さ」と迷亭は頂を縮める。「首懸けの松は鴻の台でせう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手三番町のは首懸けの松さ。なぜ〜〜」。
 昔の言い伝えでこの松の下に来ると首をくくりたくなるという話が続く。
漱石の『彼岸過迄』ではこんな文章もある。「この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美しい広い河に沿って土手の上をのそのそ歩いた」と。柴又帝釈天まで歩いて、川甚という店に行って飯を食ったとある。

■夏目漱石と岡本一平
 石井床屋のご主人(石井俊一・昭和14年生まれ)がこんなことを言っていた。ある日、岡本太郎さんが訪ねてきた。「国府台の共同墓地に埋葬されていたお父さんの岡本一平さんのお墓参りにきたんだ」と。
 ご主人の叔父さんが11号でお話をうかがった植草さん。その植草さんのご自宅がその昔、岡本一平さんの自宅だった。
 岡本一平を知らない人もいると思うので簡単に紹介すると、書家の岡本可亭の息子で、夏目漱石から漫画の腕を買われて1912年に朝日新聞社に入社している。作家の岡本かの子の夫。岡本太郎は長男。ここでは特に関係はないが俳優の池部良は甥。最近はエッセイストでもある。
漱石の『我輩は猫である』のカットも描いている。交流があったとなると、漱石が国府台の岡本一平の自宅を訪ねてきたとしてもおかしくない。
 植草さんはこんなことを言っていた。「岡本一平さんの家を買ったんだが、北側に窓があってね。日本画を描くには北側の窓の一日中一定の、あまり強くない陽射しがよかったらしい。岡本太郎さんは洋画家だから強い陽射しのなかで絵を描く。だから岡本太郎がここで絵を描くことはなかった。一平さんのお墓はここの共同墓地にあったが、一部は岡本太郎が多磨霊園に移しましたね」。
 岡本一平が国府台に住んでいたことはあまり知られていない。
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