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(千葉県市川市)里見公園新聞 16号 17号 18号 19号 20号 |
「羅漢の井」縁起については弘法大師伝説が有名だが、『市川物語』ではもう一つ総寧寺移転による縁起説を紹介している。 里見公園に隣接する総寧寺は寛文3年(1663)徳川4代将軍家綱のとき関宿から移されたもの。総寧寺の草創は古く永徳3年(1383)にさかのぼる。関宿は洪水の多い土地で、寺社奉行に上訴して国府台に移転した。僧侶だけで300余人もいた。台地のために飲み水が不足する。そこで祖峯禅師は十六羅漢に祈願して羅漢供養をしたところ、甘泉が湧きだしたという。 ところで、当時の国府台の情景がすごい。――古書によると「寺中には山林も竹林もなし、大門に今ある道灌榎2本のみあり、故に万里みえ渡りて草茫々たり、枯骨所々にるいるいとして至る人稀なり、真に飛鳥飛鳥たらず、毛ものして群を失う古戦場なり。それのみならず、雨天の節は魂魄叫びて悪風砂石を雨降らす。夜深更に及んでは亡卒集まって猛火をたき、刀杖弓箭の音止む事なし」。 厳しい残暑のなかでこれを紹介いるが、近所に住む者として、あるいは当時はその境内だったところに住む者としては、少し涼しさを感じる文章である。これが里見公園あたりの江戸時代初期の景色なのだ。 ■高台と低地 誰だったか、国府台と江戸川の地形は上野と不忍池に似ていると言った人がいた。そう指摘されて、高台と低地というテーマで東京論を書いた中沢新一の『アースダイバー』(講談社)を思いだした。一神教の世界ではこの世界は神に似せて作られるが、アメリカ先住民や環太平洋に生きてきた人(多神教)は、生き物が水中にもぐって泥をとってきて陸をつくる=アースダイバーによって世界を創造する神話が多い。 中沢新一は縄文時代の東京の地図をつくって、それを頼りに東京を散歩する。そうして書いたのが『アースダイバー』だ。付録のその地図をみると、上野の高台から国府台・松戸(下総台地)までの間は当時海だった。 中沢新一にならって、たとえば国府台と小岩を取り上げることができるかも知れない。 ところで、思いだしたが、国府台に明治神宮を作ろうとした話はこの本に紹介されている。P74に、明治天皇が崩御されたときに神社奉祀調査会(大正2年)は候補地として青山、代々木、戸山、小石川植物園、白金、和田堀村、御嶽山、富士山、筑波山、箱根山などとともに国府台をあげている。最終的には豊多摩郡代々幡村代々木にあった代々木御料地に決まるのだが。国府台に明治神宮ができた可能性もあるわけだ。 可能性だけでいうなら、国府台一帯は、昭和15年に開かれる予定だった東京オリンピックの会場予定地でもあったらしい。皇紀2600年にオリンピックが開かれる予定だった。このタイミングで誘致できたのはヒトラーが動いたからだという説がある。 |
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■じゅん菜池と里見公園 昔、武蔵野台地と下総台地の間は遠浅の海だった。3000年くらい前から東京湾が後退していって、京成電鉄が通っているあたりがその砂洲の上。そしてJR総武線がおよそ2000年前の海岸線を走っているという。 で、じゅん菜池あたりは清水が湧きだして真間の方に流れており、古くは国分沼と言われていた。じゅん菜池緑地が公園として開園したのは昭和54年。里見公園の桜の開花に先駆けるよう梅を植えた。里見公園・総寧寺の夜泣き石伝説についてはまだ本紙では取り上げていないが、同様の話がじゅん菜池公園にもある。姫宮という祠があるが、昔、国府台の合戦で敗れた里見軍の姫達がこの沼に入水して死んだのを村の人たちが哀れんで、霊を慰めるために祀ったという。 しかし江戸時代にくまなく地域を紹介した『江戸名所図会』には載っていない。ところが近くの「鏡石」が紹介されている。「鏡石」は「要石」とも言われて、どうやら「姫宮」と対をなす「男宮」なのではないか、といわれている。石の根は地中深く入っており、男根を祀ったもの。稲作が始まって、豊穣を祈願する祀り事の名残ではないかという説がある。(資料:「じゅんさい池 今とむかし」より) 江戸川の大きく曲がる所がL字=曲尺(カネジャク)に似ているところからカネが淵が派生し、同音の鐘が淵と呼ばれるようになり、鐘掛けの松の伝説が生まれたように、伝説は生成し変化するようだ。姫宮についても、稲作の豊穣を祈る祠が、夜泣き石伝説などに影響されて新しい伝説が生まれたのだろう。 ところで里見公園に八景園ができたころ(大正末期)、じゅん菜池には農家がお金を出し合って養魚場と釣堀ができた。しかし、旱魃にあい「魚のつかみ取り」を最後に、数年で釣堀を閉鎖したという。それにしても、大正末期には瞬間的に楽しい時代があったらしい。 |
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娘が中学校(国府台一中)の校内誌『里の葉』(第54号)をもってきた。なかに中1の小嶋初名太君という男子生徒が里見公園について書いていた。本人に了解をもらって転載することにした。 なお、この作文は「成田山『智光』作文コンクール」で受賞している。
■一中読書会の通信から 国府台一中読書会の通信(07.4.9.)を見ていたら、夏目漱石の『我輩は猫である』が取り上げられていて、「鴻の台の首懸けの松」の話が載っていると書いてあった。次号ではその話を紹介しよう。 |
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国府台一中の読書会の通信に、夏目漱石の『我輩は猫である』が紹介されていた。「はじめから8分の1くらいのところに鴻の台の首懸けの松」が紹介されているが、その後で「鐘掛けの松」と言い直されている。市川の郷土史家の方に聞いても、そんな松は聞いたことがないとおっしゃっていたので“たぶん鴻の台ちがい”かと思う、とか。 本紙読者ならもう説明するまでもないが、「鐘掛けの松」は鐘が淵の近くにあった松のことである。その松から鐘が落ちて淵に沈んだ。今でも沈んでいると『江戸名所図会』にある。これは8号で紹介した。 さて『我輩は猫である』から少しだけ引用しよう。 ――「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸けの松さ」と迷亭は頂を縮める。「首懸けの松は鴻の台でせう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手三番町のは首懸けの松さ。なぜ〜〜」。 昔の言い伝えでこの松の下に来ると首をくくりたくなるという話が続く。 漱石の『彼岸過迄』ではこんな文章もある。「この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美しい広い河に沿って土手の上をのそのそ歩いた」と。柴又帝釈天まで歩いて、川甚という店に行って飯を食ったとある。 ■夏目漱石と岡本一平 石井床屋のご主人(石井俊一・昭和14年生まれ)がこんなことを言っていた。ある日、岡本太郎さんが訪ねてきた。「国府台の共同墓地に埋葬されていたお父さんの岡本一平さんのお墓参りにきたんだ」と。 ご主人の叔父さんが11号でお話をうかがった植草さん。その植草さんのご自宅がその昔、岡本一平さんの自宅だった。 岡本一平を知らない人もいると思うので簡単に紹介すると、書家の岡本可亭の息子で、夏目漱石から漫画の腕を買われて1912年に朝日新聞社に入社している。作家の岡本かの子の夫。岡本太郎は長男。ここでは特に関係はないが俳優の池部良は甥。最近はエッセイストでもある。 漱石の『我輩は猫である』のカットも描いている。交流があったとなると、漱石が国府台の岡本一平の自宅を訪ねてきたとしてもおかしくない。 植草さんはこんなことを言っていた。「岡本一平さんの家を買ったんだが、北側に窓があってね。日本画を描くには北側の窓の一日中一定の、あまり強くない陽射しがよかったらしい。岡本太郎さんは洋画家だから強い陽射しのなかで絵を描く。だから岡本太郎がここで絵を描くことはなかった。一平さんのお墓はここの共同墓地にあったが、一部は岡本太郎が多磨霊園に移しましたね」。 岡本一平が国府台に住んでいたことはあまり知られていない。 |
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