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(千葉県市川市)里見公園新聞 6号 7号 8号 9号 10号 |
『聞き書き資料編―市川市国分周辺の変遷』(松岡博子著、1998年12月19日発行、発行部数100部)は、地元の人に話を聞いてそのまま紹介している。里見八景園がどのように語られているか引用してみよう。 大正11年生まれの松会久子さんの話。 「里見公園のとこが、わたしたちが小さいころは“八景園”っていってね、いろいろと演芸やったり、料理屋さんを置いたりして、浅草の“花やしき”みたいな遊技場にしようとしたのかしら。国立国府台病院の向かいに“安新堂”って衣料品店があるでしょう、あそこのお父さんがそんな遊技場をつくったんですよ。 7、8メートルほどもある滑り台やシーソー、プールといった遊具の他に、足踏み式の子供用自動車も遊園地の中にありました。クジャク、七面鳥、サル、ヤギ、ヒツジなどの動物小屋もありました。 4月のお花見のころは、演芸場が開催され、音楽隊も入ったり、東京の方からもいっぱい遊びに来て、賑やかでしたよ。 近所の子供たちはいつでも入れる無料パスを貰っていました。 大正13年に創業しましたが、満州事変が昭和6年(9月18日)ですからね、戦争になったら駄目ですよ。しばらくすると(昭和8年)やめてしまいました」。 注として「創業者は佐々木浅次郎氏。東洋一の遊園地を夢みて構想を練り、当時の金額で総工費30万円を費やした。1日千人以上の入園者があった。入園料は大人20銭、子供10銭」とある。 松会さんはこんな話もしている。 「江戸川のほとりには“鴻月”の他に“江戸川苑”という料理屋があったの。“江戸川苑”は派手で、芸者衆をいっぱい寄せて躍らせたり、夜なんか電灯をこうこうと照らして、江戸川で鵜飼をしたり。昭和2、3年じゃないですか。あのころは華やかだったですよ。あんまり派手にやっちゃったもんで、ほんのちょっとでつぶれましたよ」。 以前お話をうかがった田中酒店・田中謙一さんのお父さんは本書でこう語っている。 「江戸川へ出て、川沿いに右折したすぐの所に、今も広い空き地がありますが、そこに川魚料理の“鴻月”があり、たいへん繁盛していました。そこを下ったところが“染井の渡し”で、“染井の渡し”は鰻屋もやっていました。 渡しの所には伝馬船を改造した船宿もありました。湯船でね、煮魚とか天ぷらを食べさせて、焼酎を飲ませてね。江戸川を往来する船頭たちが川縁に船を留めて、飲んで、食べて、一風呂浴びて、翌朝、川を上ったり下ったりしていました」。 一時期、戦勝気分に湧き立っていたころは、国府台商店街も景気がよかった。「いまはなくなっちゃったけど、病院前のお蕎麦屋さんなんてお札の上に寝ていたくらいよ」と当時を知る人が話す。 雰囲気はまるで『千と千尋の神隠し』みたいではないか。江戸川もキッコーマンの醤油樽を積んだ帆船が往き来して、賑わっていたという。 |
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■物見の松 この一帯には松の木が多かった。松といえば、「物見の松」を懐かしがる人が多い。いまの川を見下ろす展望台のあたりに、昭和40年代まであったという。「小岩の方から電車で帰ってきて、この松が見えると、帰ってきたという感じがしましたね」と2号でお話をうかがった岡田さんも話していた。 雷が落ちてなくなってしまったが、遠くからでも目印になる松の木だったのだろう。 ■里見公園の入り口あたり 前号で紹介した『聞き書き資料編 市川市国分周辺』から、公園の入り口あたりを見ておこう。いずれも田中酒店の田中正光さんが語ったものである。 「里見公園の入り口あたりの桜は、皇族お立ち寄りの記念に植樹して、その後、国府台の青年団が2度ほど植え替えています」 「国府台は馬で大砲を引っ張る軍隊だから、馬糞が大量に出るんですよ。詳しいことは分かりませんが、とにかく農家の馬力だの牛車がしょっちゅう往来していました。このあたりは道が悪くってね、雨でも降るとぬかるみになって、里見公園に行く横丁は歩けなかったらしいですよ。そこで、どこかの組合でしょうね。今の床屋の前が軍隊の裏門だったんで、お金を出して、横丁の入り口から裏門まで道にみかげ石を張ったんですよ。“みかげ石が敷いてあるような道はあそこしかねぇぞ”なんて、得意になっていましたが、戦後、すっきりした舗装道路が普及すると、みかげ石は邪魔になって、持ち主が全部はがして引き上げてしまいました」。 不思議なご縁で、そのみかげ石は我が家に入る袋小路に今でも敷いてある。 |
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昭和40年代後半まであった物見の松のあたり、東京を眼下におさめ、遠くは富士山が見える展望台から眺める。いまは雲に隠れて山並みは見えない。近くのビル群でさえくもって見えにくい。 ここからその昔、滝沢馬琴も見ていたのではないか、と思って眺める。場所とは不思議なものだ。時空を超えることができる。そして、壮大な物語絵巻の世界を思い浮かべることもできる。 8人の犬士たちが“関八州”のそれぞれ異なる土地で不幸な少年時代を過ごしながら、聖玉と牡丹の花の形をしたあざに象徴される、目に見えない宿因の糸に導かれて集まり、里見王国の創建が行われる奇異な物語はここで着想されたのではないか、という錯覚かも知れない思いにとらわれる。 “関八州”といえば、埼玉県飯能の方に“関八州見晴台”がある。一度そこから眺めてみたい、とも思っている。 前号で、江戸川は江戸時代には利根川と呼ばれていたことを書いた。利根川は坂東太郎といわれ、暴れ川だった。暴れて、行徳に河口があったと馬琴の『南総里見八犬伝』には出てくる。行徳での場面はながい物語の山場になっている。八幡の勧進相撲で行徳側の関取と市川側の関取が相撲をしたことなど、あまり物語に関係なさそうな話がでてくるところをみると、馬琴は、この地に造詣が深かったのだろうか、と考えてみたくなる。 『八犬伝』はあまりの長編なのでついぞ最後まで読むことはないが、最後の方に国府台がでてくる。国府台一帯で幻想関東大戦が繰り広げられるのだ。激戦のなか、国府台で里見軍・八犬士軍は完璧な勝利を納め、南総(安房・上総)のユートピアが実現して、幕を閉じる。 現実には、里見氏はここでの戦争で敗退しているが、それを鎮魂するような終わり方ある。あるいは、鎮魂することがこの物語の目的だったのではないか。 (参考資料:『完本 八犬伝の世界』高田衛著、ちくま学芸文庫) ■エーネ・パウラスさんのこと 自転車で公園入り口にある石井床屋さんの前を通ったら、この新聞を読んでくれたご主人が親しげに声をかけてきた。ちょっと恥ずかしそうに「俺もパウラスさんの幼稚園に通ったんだぞ」という。 これはありがたい情報だ。ご主人とご主人の叔父さんと2人に話を聞いたので次号で紹介したい。 パウラスさんのことについては、公園のそばにある国府台母子ホームを訪ねて、施設長の川口学さんにお話をうかがった。パウラスさんに関するかなりの資料をお借りすることができた。 整理してご紹介することにするが、ひとつ川口さんに提案しておいた。「ぜひパウラスさんの資料室を作っていただきたい」と。 |
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ちょっと用事があって市川市役所に行った。1階に昭和3年の市川の地図が飾ってあった。 里見公園あたりはどうなっているだろう、と地図を眺める。川に面して料亭「鴻月」があり7号で話にでた「江戸川苑」もある。栗市の渡しの船着場もある。 いまの里見公園正門は陸軍病院である衛戍(えいじゅ)病院の入り口で、八景園に入るには総寧寺の方に回らなければならない。 現在の里見公園を前提として考えるので、どうしても勘違いをするが、病院のうしろ、公園はもっと奥に広かったのだ。 ■植草さんに聞く 前号で触れたいきさつで、石井床屋さんのご主人の叔父さん(植草三郎氏 大正14年生まれ)に、子どものころのお話をうかがうことができた。 ――学校から帰ってくるとまず水汲み。羅漢の井戸まで2、3回汲みに行って、それから遊ぶんだが、大変な仕事だったね。鴻月のところにポンプ場ができて、国府台一円が水道になる前は、朝に晩に汲みにいったものだ。水汲みが終わると「遊んでこい」といわれて江戸川に泳ぎにいく。勉強なんかしません。泳ぐのは鴻月のそばの栗市の渡しの桟橋あたり。深さが50センチくらい。江戸川の水はきれいだった。目を開けて泳ぐとキメ細かい砂地に雷魚の大きなのがいたりしてね。流れ止めの石が針金で縛ってあって、その石の所にはエビがいて、15センチ位のが獲れましたね。泳ぎが終わると羅漢の井戸で身体を洗って帰りました。昭和20年ごろですね。 ――里見八景園の入り口は総寧寺の鐘突き堂の方で、入ると大きな舞台があって、演芸場ですね。大きなすべり台もありました。すべりが悪くなるとしょんべんかけてすべったものです。あの頃はかすりの着物に足袋。もう1日2日で切れちゃう。「お前の足にはトゲが生えてんのか」と母親に年中怒られていました。 ――シナ事変で戦死したこの辺の人を共同墓地に祀ったのが太田庄太郎さん。戦後に自分でお金を出して墓を作った。庄太郎さんは国府台のために尽くしてくれましたね。そういえばパウラスさんに土地を提供したのも庄太郎さん。戦争が近づくとスパイじゃないかっていわれて、しょうがなくてアメリカに帰ったね。庄太郎さんも「戦争なのにかくまってていいのか」といわれてね。パウラスさんは戦争が終わるとすっとんで帰ってきたね。戦後は軍隊がなくなって、将校集会所のあったところにベタニア母子ホームを作りました。アメリカから自動車をもってきて、クーペにお姉さんと乗っていましたね。 ――八景園はやめた後もそのままになっていましたよ。サル小屋に入って遊んだりしました。跡地には、19年に軍隊が来て穴を掘りました。3本が地下で繋がるようになっていたという話しでしたね。 |
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