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国府台の民話生成

 おばあちゃんが高齢者施設に入所した。入ったばかりなのに、職員にこんな話をする。「あそこで話しているじいさんは私の連れ合いなんだよ」と。「ではあの人が話しているおばあちゃんは」と職員が聞くと「お妾さん」と話す。「それなら腹が立たないの」と職員がきくと「大丈夫、大目に見てやっている」と答える。
施設にやって来たばかりのおばあちゃんに知り合いがいるはずもない。それでもこうして物語を作ってしまうのは、居場所を作って安心するための人間の能力であるらしい。

一人のおばあちゃんだけがそうした物語を作るわけではない。ひとつの地域が、その地域に居場所を作って安心して生きていくために人々は民話を生成する。むしろ民話はそうした役割を担って生成されるものなのだろう。
国府台の里見公園周辺の民話から、民話生成の技術を見ていきたい。

里見公園の崖の下に江戸川がある。江戸川はむかし利根川と呼ばれていたが、流れが急だった。公園の下は深い淵になっていた。それは、川が曲がるところは流れで抉れ、川底が深くなってしまうのだ。
そこは古くから鐘が淵と呼ばれていた。鐘が淵は隅田川にもある。鐘が淵紡績、いまのカネボウの創業場所である。深く抉れたところをなぜ鐘が淵と言うのか。流れが大きく変化するところは大工さんの使う曲尺(カネジャク)に似ているところから、その深くなった淵を曲(カネ)が淵と呼ぶようになった。
その呼び名の語源を忘れて、同じ発音の鐘を使うようになった。鐘が淵。どうしてそう呼ぶようになったか。昔ここに鐘が沈んだ、と考えるのが自然だ。なぜ鐘がこんな深みに沈むことになったのか。まずそこが民話生成の始まりだ。
ちょうどこの淵のそばに松の木があって、その木に鐘が掛かっていた。それがある時落ちたと考えると合理的だ。「昔ここに鐘掛けの松があったんだよ」と言うわけである。鐘掛けの松の話は、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも出てくる。少しだけ引用してみよう。
――「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸けの松さ」と迷亭は頂を縮める。「首懸けの松は鴻の台でせう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手三番町のは首懸けの松さ。なぜ〜〜」。昔の言い伝えでこの松の下に来ると首をくくりたくなるという話が続く。
 横道にそれるが、漱石の『彼岸過迄』ではこんな文章もある。「この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美しい広い河に沿って土手の上をのそのそ歩いた」と。柴又帝釈天まで歩いて、川甚という店に行って飯を食ったとある。
国府台の鐘掛けの松はかなり有名だったことが分かる。国府台は北条と里見など武将が戦った古戦場である。鐘掛けの松は戦国時代に戦いの合図にするためわざわざ船橋から持ってきた、と話はもっともらしくなる。そのうち、その鐘が金銀吹きわけの立派な鐘であると見てきたような話に発展する。
さらにこんな風に話は広がっていく。国府台の戦いでは2度も北条側が勝っている。戦に負けた方の武将の妻が気丈にも「首を持って帰りたい」と戦場にやってくる。兵士たちが、「あの松に掛かっている鐘を鳴らしたら首を持って帰ってもいい」と答える。それまで、兵士の誰が撞いても鳴らなかった鐘だと言う。その妻が撞くと大きな音で鐘が鳴った。と同時にガラガラと鐘がその下の淵に落ちてしまった、と言うのである。
それが鐘が淵の名前の始まりで、昔からここには鐘掛けの松があった、と民話はそれらしく発展する。実際に松の木が植えられ、鐘掛けの松、と呼ばれるようになる

時は過ぎて昭和初期のことである。
鐘が淵のそばに何本も松が茂っていた。その一角に鸛月(こうげつ)と言う料亭があった。里見公園に「里見八景園」と言う遊園地ができて、老若男女が訪れこの料亭も賑わった。国府台の軍隊道路のそばにあった田中酒店はそこに酒を卸していた。
昭和8年ごろ、大きな台風が来て、江戸川沿いにあった松が何本も倒れてしまった。陸軍の兵隊がその松を切って薪にしてくれた。ところがその松のうち1本がなかなか切れない。根っこはとくに固くて、斧が柄から外れて、兵隊の足を怪我させたと言う。
田中酒店の爺さんは、鸛月に酒を届けた帰りに、空いたリヤカーにその松の根を乗せて我が家に持ってきた。新しく家を建てるので、縁側の靴脱ぎ台に使おうと思ってのことである。ところが、庭にその松の根っこを置いた頃から家の中にいろいろな災いが起るようになる。そこで遠方に住んでいる占いのあばあさんに視てもらったところ、木の根っこに高貴な若い女性がいる、と田中さんの家を訪ねたわけでもないのに話す。そこで占いのおばあさんに来てもらい、祈祷をしてもらって祀った、とのこと。田中酒店には今でもその松の根っこが祀られている。
こうして、鐘掛けの松の現代版ストーリーが誕生する。古戦場には、亡くなった武将を訪ねて、奥さんや娘さんがやってくる話が多い。里見公園の夜泣き石の話、じゅんさい公園にある姫宮の話。いずれも戦場を訪ねて、悲しみのあまり亡くなってしまう女性を題材にした民話である。
鐘が淵はそうした民話を生成するところだったようだ。江戸時代にその淵を夜に覗くと、ちらちらと明りが見えた、と言う話で、もう一つの民話を誕生させたいと思っている。

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